水族館へ来たのはなまえにとって久しぶりのことであった。つい最近改装オープンしたと聞いて行きたいと思ってはいたのだが、まさか凌牙と来ることになるなんてと隣にいる凌牙の横顔をそっと盗み見て一人顔を赤くした。
いつも冷やりとした静寂に支配されていて、時折ぴしゃぴしゃと水のはねる音と空気の泡が湧き出すコポコポとした音がどこからともなく聞こえてくる。
「綺麗。」
ぽつりとなまえが言った。二人の目の前に広がる天井まで届く巨大な水槽は、イワシの群れが巨大なプールをぐるぐるとまわり、チョウザメは狭い水路を溯り、エイはゆうゆうとイワシの群れの中を泳ぎ、オジサンというへんてこな名前の魚は岩場を暇そうにぐるりと一周していた。パンフレットの表紙を飾っているのが今まさに見ているこの水槽でイワシたちが二万以上も群れを成しているらしい。泳ぐたびにきらきらと銀色に輝く様はきっと何時間見ていても飽きが来ない。ずっとこのエリアだけでもいいとなまえは思っていたが、凌牙は少し焦ったように「次に行こうぜ」と言った。
他のエリアも見たいことには変わらないし小さく頷くと凌牙はスタスタと歩き出した。凌牙の歩く仄暗い廊下の角は半魚獣フィッシャービーストが息をひそめているような感じだった。歩きながら通路にも展示してある水槽にも目をやる。大きなカニが何匹も固まって休んでいる。あんなに足があって絡まらないのかと不思議に思っていると凌牙の歩く速度が遅くなった。
「悪い。」
ぼそっと首の後ろを掻きながら言った。やっぱり何か用事があったのかとなまえは眉を下げた。
「何か用事あった? 帰ろうか?」
さっきの水槽で満足したし、と付け足しながらなまえは凌牙の顔を見る。そしてなまえの心も薄暗い水族館のように冷たくなる。用事があるのかと聞いたがきっとこんな自分とデートをしている姿を誰にも見られたくないのだろうな、と。きっと彼は優しい人なのだ。不良ではあるのだろうが、いじめっ子から救ってくれ気分転換も連れてきてくれた。しかし慣れないことをしたのか今自分の置かれている状況に気づいてしまったのだろう。
「ごめんね。」
なまえの口から出た言葉は謝罪だった。向かっている方向とは逆に足を向け帰ろうとすると、咄嗟になまえの手首を凌牙が掴んだ。
「待て!」
大きい声が水族館に響き、目線が二人に集中した。なまえは戸惑うが凌牙は気にすることはなく「謝らなくていい」と続けた。
「今日はこの水族館以外用事はない。」
凌牙がきっぱりと言った。しかしではなぜ?と疑問の表情をなまえが作ると「はあ」と海よりも深そうなため息をして後ろを睨みつけたっきり動かくなった。何か後ろにあるのかとなまえが振り向くと数人の気配がサッと水槽の影に隠れた。しかし一人だけイセエビのように真っ赤で立派な前髪をした少年だけがこちらに向かってぶんぶんとはちきれんばかりに手を振っている。笑顔で「シャーク!」と言いながら駆け寄ってきたが、水槽からモンスターのように数多の手が出現し、その少年が水槽へ吸い込まれてしまった。まるで海の生き物の残酷な捕食シーンを見せられたような気持ちになり、なまえは凌牙の顔を見ると更にため息をしていた。
そして凌牙が一歩づつその水槽へ近づいて「おい」とすこしきつめに呼びかけた。凌牙の後ろでなまえは様子を見る。びくっと水槽が揺れたような気がした。水槽で泳いでいた小さなエビたちが慌てて水草の中へと隠れている。水槽の影に潜んでいる人物たちが観念したように乾いた笑いをしながらぞろぞろと出てきた。
先頭に居たのはまるで人魚姫のようにきれいな水色の髪と顔立ちをした女の子であった。凌牙を見るなり「バレてましたのね」と舌をちらっと出して小さく笑った。その後ろには同じくとても可愛らしい緑色のおだんごヘアーの女の子が、先ほどの赤い髪の男の子の耳をひっ捕まえて「もう遊馬ったら!」と怒っていた。遊馬、と呼ばれた赤い髪の子は「小鳥痛ぇよ!」と涙の訴えをしている。奥にもう一人いる。そんな二人を何故か止めようとせずにこにことした笑顔のままで「遊馬くんは鈍感ですね!」とオレンジ色の髪の毛をつんつんに尖らせた男の子はどこか楽しそうに言った。
「ごめんなさい、邪魔をするつもりではありませんのよ。」
水色の女の子がなまえに眉を下げながら謝った。なぜ謝られているのもかもわからないなまえが戸惑うと「ああ!」と思い出したように向き直り「そこの凌牙の妹の神代璃緒と申します」ときれいに一礼をした。あまりにもきれいな一礼になまえも慌ててお辞儀をし名乗ると、にっこりと笑いながら手を握った。「そこの」と言われた凌牙から小さく舌打ちのような音が聞こえたのはきっと気のせいだろう。
「ちなみに同級生ですわ。今後学校では凌牙共々よろしくお願いいたします。」
「い、いえ! こちらこそどうぞよろしく…。」
目の前の人魚姫は璃緒という名前らしくさらに凌牙の妹ということがわかった。学校でこんな美少女を見かけたら話題になりそうだが、となまえは疑問を持ったがこの二人のやり取りを見ていたのかオレンジ色の男の子が「僕たちは良かれと思って着いて来たただの愉快なお供なのでお気になさらずー!」と叫んだ声でかき消された。
「やっぱり着いて来てたんだな。」
「だって! 凌牙が珍しく水族館に行くって言うから気になったんだもん。」
ぷくぅっとフグのように可愛らしく璃緒は頬を膨らませながら言った。そんな璃緒と凌牙のやり取りが微笑ましくなまえは優しく笑う。笑われた璃緒も恥ずかしそうに小さく笑った。「デートのお邪魔でしたわよね」となまえを気にかけ凌牙に言う。
「ああ、まったくだな。よりにもよって遊馬たちまで…。」
凌牙は遠くで緑と赤が騒いでいる様子を見ながら言った。
「あ、でもべつに、一緒でも…。」
なまえはぼそっと言った。その発言に凌牙は目を大きく上げ心底嫌そうに「アイツらまで面倒見きれるか」と静かに速足でその場を離れた。待って、となまえが追い、目で璃緒に「どうしよう」とすがると「いつものことですので」と言いながら手を振っていた。
凌牙がどんどん廊下を進み、大きく静かな水槽のエリアに来るとピタッと止まった。後ろを振り向いて、なまえの存在を探す。すぐ後ろを着いてきたことに安堵すると「悪い」とまた小さく謝った。目の前にはマンボウ一匹だけの水槽があった。マンボウは大きく、白く、ゆっくりと泳いでいた。にぎやかな人間たちの声など聞こえていないのだろう。ただ静かに、行ったり来たりを繰り返していた。
「マンボウっておっきいよね。」
目の前に近づいてきたマンボウに目線を合わせながらなまえが言う。「ああ」と軽く返事を返すと、屈んでいるなまえのそばに展示スタッフが作ったと思われるパネルが凌牙の目に入った。そこには『体調不良から無事復帰!原因は"さみしんぼう"』と書いてあり、凌牙が小さく吹き出した。いきなり凌牙がくつくつと抑えながら笑うのでなまえがびくりと肩を揺らし、弾かれたように凌牙の顔を見た。何に笑っているのか検討もつかず、ただ笑っている凌牙を見ていると、凌牙は指を差した。先を目線で追い、パネルを確認する。
「改装に伴い休館をしたところマンボウが体調不良に。餌を変えても良くならず、苦肉の策でお客さんを模したマネキンを置くと無事回復。いつも元気なマンボウの源はみなさま。」
パネルに書いてあった文言をなまえはそのまま読み上げると、なまえもくすりと来てしまい笑みが零れた。手書きで描かれているマンボウのイラストもなんとも良い味を出している。
変にツボってこんなに笑っている凌牙を見たのは初めてであった。同じクラスではあるが、いつも学校には来ていないし、来ていてもすぐ帰ったり、授業をサボったりしている凌牙しか知らない。どうやら大きな大会で不正をしてから不良へとなってしまったのだと聞いたことはある。学校にいるとき凌牙は、笑ってはいない。そのことを思うと今日は凌牙にとっても気分転換になったのかな、となまえは凌牙を見て微笑んだ。