後輩に当たる掃除人に頼まれて、久しぶりに従食に来た。
昨日、明日つまり今日のメニューが出されてから、そわそわしていた彼女は約十分後に私のデスクまでこのようなお願いをしに来たのだ。
別にいーよ、と返事をし、悠くんには明日は後輩と従食行くねとラインを送った。
そして今日、ちらし寿司と手羽先の煮物、かぼちゃのそぼろあんかけ、すまし汁、白玉入りフルーツポンチを後輩と向き合って食べることにしたら、視界に悠くんと銅寺立会人が入る。
本当に仲良いなぁ、妬けるなあとか微笑ましく思っていたら。
おいおいおいおい、誰だあの女は、と眉間に一本皺が刻まれたのだ。
後輩の手前、すぐに皺を解除して平静を装いつつ会話をしていたが、彼女を視界に収めつつ、ピントが合っているのはその向こう側。
私と違って目の上でふんわりした前髪、私と違って短いふわふわの髪。
私と違って目尻の跳ねたネコ目、笑うと目立つ八重歯。
それらが、あろうことか、極々自然に悠くんの隣に座ったのだ。
聞いてませんけど。女性とは仕事上の最低限しか付き合いがなかったのでは? と腑が煮えくり返りそうになって、思い出した。
悠くんを狙っているっていう立会人のこと。
ふたりはこちらに背を向けていたから、私には銅寺立会人の顔しか見えない。
イライラムカムカしたけれど、いくらも入ったちらし寿司を食べていたら、どうでも良くなってきた。
「先輩、最近口紅変えました?」
「変えたよ。分かる?」
「分かりますよう。どこのですか?」
この前買った新商品の名前を挙げて、お気に入りのブランドを幾つか挙げて、オススメのブランドも幾つか挙げて、あの三人を思考から追い出す。
あまりしない話をしながら、従食が意外と美味しかったことを思い出した。
「先輩、もともと美人ですけど、最近もっと美人になって。羨ましいです」
「…そうかな、ありがとう」
こういう話、どこかで聞いたなと思って、また思い出してしまったことを悔やむ。
食べ終わったら、さっさと行こう。そう思っていたら、後輩の社用携帯電話が震えた。
「わ、夜行掃除人だ」
「ほんと? 仕事じゃない?」
電話の感じそれは仕事の話で、まだ経験が浅い彼女は色んな現場に付いて行くことが多い。
ふたりとも殆ど食べ終わっていたから、急いで食べ切ってトレーを返しに行く。
あの三人のテーブルを通り越した。
悠くんは、必ず私に気づいている。
それに、やたら緊張した。
私は何もしていないのに、悪いことをしたみたいな、後ろめたさを感じた。
「わ、あの人脚長い! スタイル良いー!」
それでも見た目だけは颯爽とハイヒールで闊歩していた私の背に、鈴を転がしたような声がかかる。
しかし私は振り向かない。
自意識過剰と取られるのも面倒だし、必要性を感じない他人との接触は避けたい。
私の脚が、日本人女性のそれの平均より10センチほど長いのには訳がある。
確証は無いのだが、股関節が弱い家系なのが理由らしい。母は私と妹を産んで数年後に人口関節にしたし、妹は幼い頃に将来そうなるだろうと診断を受けた。私は何の異常もなくピンピンしており、挙げるとすれば、産まれたときから脚が少し長いことくらいだった。
医師に依ると、こういうことは少なくはないらしい。
家族揃ってそれなりに顔が似ていたから血を疑われることもなかった。
それでも、脚が長い、スタイルが良いは言われ続けていたから耳にタコ状態だった。
「ああ、みょーじ掃除人ですね。脚も長い、スタイルも良いですが、美人でも有名ですよ」
銅寺立会人の声。
へえ、そうなんだ。知らなかった。
「ねえ、弥鱈立会人」
銅寺立会人がいつもの調子で振って、思い出した。
彼は、悠くんと私が付き合ってるのを知っている。
つまり、ワザとだ。
「はぁ、そうですねぇ」
そして悠くんは、いつも通りの気だるさと興味のなさで返事をする。
良いけどね、良いけども。
まあちょっとは褒めてよ。
「へーぇ」
猫矢立会人の声の感じ、あんまり良く思ってはいなさそう。
嫉妬を向けられるのは慣れているし、それは私に敵わないから抱くのだと知っているから、割りと快感でしかないけれど。
後輩と一緒にトレーを置いて、出入り口を目指す。
長い脚に、お気に入りの13センチピンヒール。社内移動用で、掃除のときは脱げないハイヒールに履き替えるけれど、これは踵にリボンが、ヒールにシルバーのスタッズがついていて可愛い。
日本人女性は、ハイヒールを履くと膝が曲がって美しくない歩き方をするけれど、私は鍛えているから例え何センチヒールでも脚を真っ直ぐ美しく歩けるのだ。
生まれつきの長さと、鍛え抜かれたラインに、それを惜しげも無く晒すミニスカート、近寄り難さを一層際立てるハイヒール。
貴方の彼女が如何に美しいか、しかと見とけ、と思いながら歩く。
後輩と早歩きで執務室に向かっていると、ポケットの携帯電話が震える。それが私用のものであることは分かっていたので、すぐには見ない。
後輩は、夜行掃除人と他の掃除人のところへ行き、私はデスクについて携帯電話を見た。
今日もお綺麗ですね、と一言。
当たり前でしょにハートをつけて返す。
すぐに既読がついて、可愛いスタンプが来て、私も可愛いのを返す。
やりとりがここで終わるのは分かっているから、歯磨きをしに行く。
そして給湯室の鏡を見て、思っているほど美人でない自分と目が合って、嫌な気分になった。
私のは完全に、雰囲気だ。
もやもやしながら、夕湖に報告のラインをして、ため息を吐いた。
私が誰より可愛くて、私が誰より綺麗で、私が誰より一番でしょう、貴方にとっては。
そう拗ねたら、さらにブサイクになって、泣きそうだった。
「ブス」
私はまた、意図的に私を傷つける。
どうしてこんなことをするのか、さっぱり理解できない。
悠くんの暗示が解けてきてしまっている。
誰よりも愛されている実感が無いと、それは私を引き留めてはくれない。
ブー、とポケットが揺れる。
見たら、悠くんからで、すべてを見透かしたように、魔法の言葉が連ねてある。
なまえさんが一番可愛いですよ。
ああ、もう。
分かってる、そんなこと。
ちゃんと分かってるんだ。
心を乱されない私になりたいのに、いつも私が邪魔をする。
イライラしている、そのことにイライラする。
受け流せる自分に、気にしない自分に、そんなのどうでもいいと言える自分に、なりたいのに。
歯痒い。
無調整豆乳を、マグカップに注ぐ。一日一リットル飲み干すペース。
月経が近づくにつれ、PMSが酷くなる。そういうときは、これに限る。
飲むと確かに、無意味なイライラが消える。
そうして、私に対して彼女についての説明がないことに、落ち着いた心で苛立つ。
と言っても、悠くんはあのラインをくれた後に急遽京都への出張が入ってしまい、会えていないから仕方ないのかもしれない。こういう私にとってデリケートな話題は、文字にすると誤謬を招く可能性がある。
先入観で以ってそれを読み違えることだって、私はきちんと理解している。
戻ってきて、どう来るかが問題だ。
二泊の出張、即ち二日ほど会えないわけだが、交際を始めてこの方、二日会わないことがなかった。
同じ会社、特殊な職業ということもあり、全く会えなくても一日くらいで、二晩もひとりで寝ることがなかった。
おかげで、一昨日はともかく昨日はひとりのベッドに慣れず、PMSも相俟って寂しさが頂点に達し、深夜に電話をかけるという醜態を晒した。
悠くんはすぐ出てくれたけれどその声はいつもよりかさついていて、私はあらゆることに自己嫌悪を覚えた。
それを、窘めて許して宥めて慈しんでくれたのも、そのかさついた声だったわけだが。
「みょーじ、暇そうだな」
受話器を置いた夜行掃除人が、女性誌を捲る私に声をかける。
「ご覧の通り、ちょー忙しーでーす」
夜行掃除人にこんな口が利ける人もそうそういない。
私はカップルについて講釈を垂れているページを熟読しながら、目も合わさずに言う。
「そうか。そんなに忙しいのならば、弥鱈立会人の迎えは別の奴にやらせよう」
「えっ、なになに、行く」
あ、と思ったときには時すでに遅し。
私は掃除課執務室でこの発言をカマしてしまった。
夜行掃除人が知っているのは薄々感じていたが、こんなに直球で来るとは思いもしなかった。
「忙しいんじゃなかったのか?」
「さっすが、夜行さん。ちょうどいま終わった」
「分かり易い奴だな」
「もー、こんなところで言わないでくださいよー」
夜行掃除人は人差し指と中指で小さな紙片を挟んでこちらに向けた。
私は雑誌を開いたままデスクに置いてそれを取りに立ち上がる。
受け取ってその場で見れば、14時半に羽田到着、と書いてあり下には使用する社用車の情報が達筆で綴られている。
「じゃー、私行きまーす」
「事故るなよ」
「誰に言ってるんですかぁー」
マグネットを運送の位置にずらしクラッチの中を整え、まだ時間があったから先に報告書の書ける部分を書いておく。
それから、興味をそそられた記事をもう一度、読んだ。
…
空港の駐車場に車を入れて待つ。
どこに停めたかの連絡は勿論忘れず。
早く会いたいという気持ちと、夜行掃除人には一体いつどこでバレたのかも気になった。
あの言い方をされては、聞いていた他の掃除人にも勘付かれただろう。全く余計なことをしてくれる。
そう思いながら、持て余した暇をラジオを聴いて紛らわせていた。
ちょうど懐メロを流し始めたとき、向こうに黒スーツを見つける。
普段は手ぶらだから見慣れないビジネスバッグと、黒っぽい紙袋。
手を振りたいのを、堪えて堪えて。
車を降りて、後部座席のドアを開ける。
「お帰りなさいませ。お疲れさまでした」
「只今戻りました。…ありがとうございます」
いつもと変わらない。困り眉と痩け気味の頬、抑揚のない低い声。
それなりに疲れているようで、いつもより音を立ててシートに沈み込んだ。
けれども反応はしないで、運転席に戻る。
「貴女が来られたんですね」
「…夜行掃除人に、みんなの前で言われました」
「…何て?」
「弥鱈立会人のお迎えに行くかって」
「…ほう」
「私もうっかり、喰いついちゃって」
怒られるかと思ったら、彼は別段気にすることもなく、いいんじゃないですか、と簡単に言う。
そうして、運転席と助手席の間から紙袋を突き出した。
「お土産です」
「…私に?」
「なまえさんの分しかありません」
「…良いの?」
「構いませんよ」
受け取る。
紙袋には京都の老舗茶商の屋号が入っている。中を覗くと。
「生ちゃこれーと」
「抹茶、好きでしたよね」
「、うん」
「お口に合えば良いのですが」
「…いま食べて良い?」
「勿論、どうぞ」
戻り時間は特に決まっていないし、そもそも飛行機の到着時間は確実とは言えないし、少しばかり遅くても良いだろうと、それを開ける。
保冷剤を除け、蓋を開け、入っていた紙は後で読むことにして、横に五つ縦に四つ並んだ抹茶の生チョコをプラスチックのピックで刺して、食べる。
「んっ」
勢い良く振り向く。
いつも通りの表情の悠くんと見つめ合う。
「…めっちゃおいしい」
「それは良かったです」
「いや、悠くんも食べた方が良い。ほんとに美味しい。すごい美味しい。はい、あーん」
もうひとつを刺し、悠くんに近づける。
まだシートベルトをしていない悠くんは少しだけ乗り出してそれを食べてくれる。
右側を見ながら、もぐもぐ動く、可愛いお口。
「ね! とっても美味しいでしょ!」
「そうですね。思ったより美味しいです」
「わー、嬉しい! 大事に食べる!」
「喜んでいただけて何よりです」
甘味は偉大だ。
もう一つを口に含み、ピックをしまい蓋をする。紙袋に戻して、時間を見る。
「ちょっと急ぎますね」
「…飛行機が20分遅れる連絡をしてあります」
「、」
「急がなくて、いいですよ」
「、はい」
ゆっくり、アクセルを踏む。
私の中にまた、幸せな何かが流れ込む。それは温かくてとろとろしていて、いい匂いで、私を包んでくれる。
その幸せを噛み締めながら本社ビルを目指して、いつも通りに走る。
無言の空間、事故らないように当然細心の注意を払いながら、言葉を選ぶ。
「…悠くんは、私のこと守りたいって思ってる?」
「…なんですかまた、急に」
「さっき雑誌を読んでて、寝相の記事があったの。でね、男の人が女の人を後ろから抱っこして寝るのって、そうなんだって」
「思ってますよ」
「え?」
「守りたい、と思ってます」
「…うん」
恥ずかしくないのかな、と思うけれど寧ろ私が恥ずかしい。
私は左側を向いて寝るのが寝やすいようで、気づくと悠くんに背を向けているのだけれど、さらに気づくと彼の腕が私を抱えていたりする。
それが、私はとても嬉しい。
「猫矢立会人も、面識がある程度です。なぜ寄ってきたのかは分かりません。この間の修練がどうこうと話しかけてきました。銅寺立会人は研修で一緒になったことがあるそうですが」
「…ふーん」
「心配するなと言ってもするでしょうが、必要ありませんよ」
なまえさんしか見ていません、と言い切る悠くんを、信じたいと、思った。
誰も掻き乱さないで。
誰も奪わないで。
けれどその程度で失われるのなら、さっさと無くなってしまった方が、良いのも分かっている。
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