いつもの休憩所に置いてある自販機にだけ、私の大好きな有名なオランダ産のココアがある。
一時期煙草を吸っていたときは隣の喫煙スペースに行くついでに買っていたが、悠くんで満たされてきた私は煙草をやめ、いまはただココアだけを買いに来ることもある程度なのだが。
今日、ぴったりの小銭だけを握って乗り込んだエレベーターがその階で開いたとき、目の前にいたのは悠くん、と猫矢立会人だった。
はあ? と思ったのを顔にはなんとか出さずに、会釈して降りて自販機を目指す。
エレベーターが来たことにより中断していた会話が再開したような感じで、猫矢立会人が喋り出す。
悠くんは、はあ、とかへえ、とかそうですか、とかばかりで、それがちょっと笑えた。
それでも猫矢立会人は、楽しそうにコロコロ喋り続けている。
なんとなく、モヤモヤはあるけれど、私は黙ってカップのココアを買って、またエレベーターを待つ。
フライングで一口、口をつけて、悠くんはなんて言うかなって、思った。
…
「随分楽しそうでしたね」
「…そう見えました?」
「向こうがね」
「彼氏と上手く行っていないという相談だと」
「へえー」
適当な相槌を打って、膝の上のカタログを捲る。悠くんが用意してくれたマグカップに手を伸ばしてアイスココアを啜った。
別に挙動を探ろうとも思わない。
一抹でも彼女の方が良いと思うなら、私は悠くんを手放す構えだ。
でも、きっとそんなことはない、と私は結構本気で思っている。
「取り留めのない話ばかりで辟易しましたが…どう思います?」
「彼と上手く行っていないのを、男性に相談している時点でダメですね」
「同感です」
こうやって、私が可愛げのない発言を繰り返しても悠くんは気にしない。
悠くんは私のことをよく分かっているけれど、私はまだ悠くんを分かっていない。
というよりは、その思考を想像して、それが正しいという確証を持てないでいる。
悠くんは私に嘘を吐かないし、というか基本的に嘘を吐かないし。
最初から分からなかったけれど、距離が近くなると余計に何も分からなくなる。自信が持てなくなる。
マグカップを戻す。舌の上で甘い液体を転がして飲み込む。
「これ」
「…ん?」
「似合いそうですね」
横から指が出てきて、捲っていたカタログの、下着姿のアイドルの内のひとりを示す。黒地にモカのレースを一面にあしらった、ブラとショーツ。
確かに私も、これ良いなと思って見ていたところだった。
「…そう思う?」
「なまえさん、こういうの好きでしょう」
「…うん」
「私も好きですよ。なまえさんによく似合いますから」
「…じゃあこれ、買いに行こっかな」
「良いと思います」
ページの端を折る。
こういうときの、自分がなんとなく嫌だ。
なんだか恥ずかしい。彼氏の好みに、合わせる感じ。それを、見られているということが、恥ずかしい。
似合うとか、好みを把握していたりとか、そういうのがやっぱり嬉しくって、舞い上がりそうになる自分が嫌だ。
なんでこんな、女子みたいな思考回路をしているのだろう。
特に表情に出さずに考え続ける。それは私が女だからだ。
「…そろそろ寝ませんか」
そう言われて顔を上げた。彼が見ていたテレビ画面にはもうそろそろ日付けが変わる時間が表示されている。
そうだね、と言ってカタログを閉じた。
ココアを飲み干して、立ち上がる。さっとマグカップを洗い、歯磨きをする。
一通り身支度を終えてリビングに戻ると、テレビを消して窓を閉める後ろ姿があった。
なんにもない悠くんちより、そこそこ暮らしやすい私のうちにいることが多く、もう勝手知ったる、といった感じ。
「今日も疲れたねー」
「そうですね」
他愛のない会話をしながらリビングから扉一枚のベッドルームへ。シングルのベッドでも意外となんとかなる。どちらかが真ん中に寝なければ。
間接照明だけを点けて、彼の左側に横になる。腕枕に頭を乗せて少しくっつけば、抱き締めてきた腕が体のラインをなぞる。
これから、もっと恥ずかしいことをするのだ。
それは私が女だということをありありと見せつけるから、私は気が気じゃない。
「なまえさん」
囁きに顔を上げる。
優しい唇が私のそれに触れて、私はたまらず目を閉じた。
「なんだ、大丈夫そうじゃない」
「なんだっていうの気になるけど、そうみたい」
「なまえ、信じられないとか言ったでしょ」
「まあねー」
「良かった良かった」
「悠くんはなんでそんなに私が好きなのかはさっぱりだけどね」
「そーいうものでしょ」
組んで足に乗せた腕に頭を預けて夕湖を見ていた。けれど、なんて言ったら良いのか分からなくて、顔を上げて前を向いた。
汗がこぼれる。
小さくて見えない温度計と湿度計、砂時計。賭郎本社ビルには、トレーニングルームとシャワールームに併設してサウナ室まである。
「なまえはなんで弥鱈立会人が好きなの?」
「なんでって言われても…」
私を好きだから、とも思い浮かんだけど、実のところよく分からないから言わなかった。
でもきっと、それはあながち間違いではなくて、私に優しいとさらに好きになるし、私を愛してくれるとさらに好きになる。
好きな人に愛されて、愛が深まるのか、好かれて嬉しいから好きなのか、それは分からないけれど。
「でも好きなんでしょ?」
「…うん」
「分かんないけどさ、好きってそーいうんじゃない」
「悠くんもさ、なんで私が好きなの?って聞いたら、なんでもって言うの」
「はーマジのろけうぜー」
「えー、ごめん」
笑った夕湖が、頭を小突く。
いまきっと、私はとても幸せなんだ。
それは悠くんが、私を信じさせてくれたから得られた未来であって、悠くんが、私を愛してくれたことがすべてだった。
私をこの上なく愛してくれる人に、愛されていることが、この上ない幸せ。
「はあ、ビール飲みたい」
「ちょっと夕湖台無し」
…
ラインで呼び出しを食らって、いつもの休憩スペースに来た。
悠くんは喫煙所にいたけど、私はもう用がないからココアを買って座って飲む。
目の端に、悠くんと猫矢立会人の姿を捉える。何を考えているのやら、と思いながら意味もなく携帯電話をいじる。
固い足音がして顔を上げたら、悠くんが喫煙所から出てくるところだった。猫矢立会人も付いてこようとしているのか、持ち物をまとめているが、悠くんは見向きもしない。
ちょっと、笑える。というか、可哀想にもなってくる。
「なまえさん」
名前を呼ばれて、面食らった。
社内ではいつも名字に役職で呼んでいるのに。
勢い良く顔を上げたら、歩きながらもその目が確かに私を見ていて、私はよく分からないままカップを持って立ち上がる。いつものように緩やかに速度を落としたから私もいつものように隣を歩く。
エレベーターのボタンを押す悠くんのすぐ隣に立ったら、引き寄せるように腰に腕が回る。
「どーしたの」
「アレ、もううざいんで」
小声で話して、心底面倒くさそうな声に少し笑う。悠くんは、それを嫌な顔で見たけれどそれすら可愛く見える。
多分、二週間ほどはたまたま遭遇という名の攻撃を食らっていたのだから、面倒くさくもなるだろう。
少し近づいて、凭れるように体を倒す。
「悠くんたらモテモテー」
「バカにしてるんですか?」
「彼氏がもててると彼女としては鼻が高いといいますか」
「そんなもんですか」
「悠くんは浮気の心配、皆無だからね」
いたずらに笑えば、悠くんと目が合う。
本当だよ。本当にそう思っているよ。
初めは疑っていたし、それでも良いと思っていたけれど、いまは悠くんはなんでか私を溺愛しているという自負がある。
すべて悠くんの予言通りになった。
後ろの反応が気になったけど、振り向かない。ただ、背中で楽しむ。
長い脚で、彼の脚をすりすりしながら。
来たエレベーターは運良く誰もいなかった。乗り込んで、振り向いて立って、喫煙所の出入口で私を睨んでいる目を見返す。
悠くんが指で顎をさらって、唇が触れたところでドアが閉まるなんて、まるで映画みたいだ。
「もー。やばいんじゃない?」
「何がですか?」
「言いふらされるかもよ」
唇が付くか付かないかくらいの距離で喋る。
楽しくって見上げたら、悠くんも楽しそうな目をしていた。
「貴女に悪い虫がつかなくて済むので良いですよ」
「私よりは悠くんでしょ」
「なまえさんでしょう」
この脚、と悠くんの手が太ももをなぞる。くすぐったくて身を捩る。
私は、悠くんが関係を隠したがっていないことがまた嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
笑っていたら、口角を僅かに上げた悠くんが頬に口づける。
ああ、しあわせだ。
素直にそう、思う。
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