それは突如やってくる。
鞄からうまく鍵を取り出せなかったとき、前を歩く人の歩く速さが遅いのに抜かせないとき、部下の仕事が遅いとき、エレベーターがなかなか来ないとき。
普段なら気にも留めないことに、イライラし出したら私は携帯電話のアプリを確認する。
生理予定日まであと8日の文字を確認して、少し落ち着いた。
仕方がない。毎月来るPMSにどうこう言っても無駄なのだ。こうなった私がすることはただひとつ、1日1リットルの豆乳を消費すること。
合う合わないがあるけれども、どうにも私には相性が良いのか、ただのプラシーボ効果なのかは分からないか、飲むとイライラが落ち着く。
イライラすることに対しての自己嫌悪からさらにイライラしてしまう。
カッとなってしまいそうなときは、なるべくその場を離れ、迷わず豆乳を飲んで落ち着くのを待つ。
そんなこんなで仕事を終わらせた、夜。
「あそこのパンケーキ、美味しかった?」
パソコンでゲームをする猫背に嫌味を言う。
今日見てしまった。
この時期は決算前ということもあり、賭郎へ出資をしている人主などへの接待が多くなる。
斯く言う私も、それに纏わる送迎に駆り出されていたのだが、そこでうっかり見つけてしまった。
悠くんが、今回担当になった人主の女と、人気のカフェにいたところを。そうして、悠くんの運転する車の助手席に、彼女が当たり前のようにさっさと乗り込んだところを。
当然、悠くんは後部座席に乗せようとドアを開けに行く。しかし、それより早く彼女は自分で助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「私も美味しいもの食べたいなー」
これも、嫌味に言う。
普段、生理前のイライラを我慢し続けているせいか、どうしても悠くんの前ではうまく抑えが効かない。
きっと、好かれている自負が、癇癪を起こしても嫌われないという根拠のない自信を呼んでしまうのだ。
こんなことをしていたら嫌われる。分かっているのにイライラは止まらない。
あれは仕事の内だから、とやかく言われることでもない、そんなことだってよく分かっているはずなのに。
いつもなら許せることを、どうしても許せなくなって、その自分の浅はかさに自分まで許せなくなる。
口を塞ぎたいのに、止まらない。
私のモヤモヤが、私を置いて暴走していく。
「助手席に座らせて送ってあげるとか、彼女みたーい」
「…なまえさん」
だんまりだった悠くんが、私の名を窘めるようにきつく呼ぶ。
意味が分からないが、それにすらイライラした私は顔を上げて彼を睨んだ。
「仕事です」
平然と言ってのけるその黒目が腹立たしくて、止まらない。
そんなこと私だって分かっている。仕事だ。あれはまごうこと無き仕事だ。賭郎は金がかかる。あればあるほど、良い。だから、人主が沢山出資をしてくれるならそれだけ有難い。
そのための接待で、あの程度で機嫌が良くなるなら万々歳なのだ。
分かっている。分かっているのに。
嫌なことを言ってごめんなさい、と思う私が、この世のすべてにイライラする私に勝てない。
「へー、じゃあ人主にセックスしてくれたら倍出すって言われたらするんだー、仕事だもんね!」
そういう話じゃない、と冷静な私は分かっている。
けれどイライラに支配された私は止められない。
「なまえさん」
借りてきた専門書から顔を上げると、悠くんがこちらに向かっていた。
ソファに座ったまま、私は考える。
ああ、殴られるかも。グーはないかな、叩かれるかも。あ、悠くんなら蹴りかな。
冷静な私はそう考えて、イライラする私はどこかに八つ当たりをしたくてたまらずに、専門書を強く掴んでいる。
「なまえさん、ごめんなさい」
悠くんは片足を曲げてソファに座り私を直視して、そう言った。
面食らって、右手から力が抜ける。
伸びてきた両腕を拒まず、けれど応じず、私はただただ黙って抱き締められる。
鼻を掠めた悠くんの匂い。背中に回る大きな手。
ぎゅうと抱き締められたら。
「俺が悪かった。確かに軽率だった。ごめんなさい」
抱き締められて、頭をゆっくりしっかり撫でられる。
その瞬間、この世のすべてにイライラする私に、嫌なことを言ってごめんなさいと思う私が勝った。
「ちがう。ちがう、悠くんはわるくない。ごめんなさい。わたしがわるい。わがままでいやなことゆった」
躊躇いながらも脇腹辺りのTシャツの布を掴んで、俯く。肩に額を預ければ、私の口から出た言葉は少し小さくなって、それでも彼に届く。
ごめんなさい、もう一度呟く。
どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。
どうしてイライラしちゃうんだろう。
どうして、こんなに優しい悠くんを傷つけちゃうんだろう。
いちいち自己嫌悪をしては、謝罪の言葉を呟く。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
謝ったって、許されない。謝るくらいなら、最初から言うべきでないんだ。
悠くんが、溜息。私は、怯える。
「良いですよ。生理前だからなんでしょう。イライラするのは」
もう何か月も一緒にいて、だから当然私の生理日は把握しているとは思っていたが。
またしても平然と言ってのけられて、固まる。
デリケートな話題に、少し羞恥を覚えるものの、そういうことに恥じらいを覚える程度の関係でもないと思い直した。
「…ごめんなさい」
「良いですよ。寧ろ、仕事中はきちんと抑制している良い子です」
いいこいいこ、とのんびり悠くんが言って、合わせて頭を撫でられる。
その、取り留めない言葉が節くれだった私に染み込んでいく。
黙って撫でられる。感触をしっかり記憶する。その手の温もりを、優しさを。
「なまえさん、好きですよ」
またその魔法と口づけで、私はざらざらした部分を手放した。
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