マスクをして、ゴホゴホ言いながら電車に揺られて帰ってきた。こんな日に限って、まさかの残業。忙しすぎて夕飯も摂れずに午後九時を過ぎた。
お腹はぺこぺこだし、うっかり風邪をひいたせいで具合が悪い。
のど飴は仕事中に舐めすぎてなくなってしまった。
体調不良なんて言えるか、と気張っていたせいか会社を出てからどんどん頭が痛くなってきた気がする。
明日は休みだから悠くんちにお泊まりなのに、最悪だ。風邪ひいた!でも行くから!という連絡にはスタンプしか返ってこなかったが、なんて言われるだろうか。そう思いながら、悠くんち最寄り駅で降りる。最寄り駅から、徒歩二分。
面倒くさがりで稼いでいる悠くんにいつも以上に感謝をして、マンションに入る。へろへろしながらテンキーに合鍵を差し、自動ドアをくぐりエレベーターに乗る。
もうちょっともうちょっと、と頑張りながらぐんぐん上がり、目当ての階で降りた。
小走りで辿り着き家の鍵を差して回す。

「着いたあー」
「おかえりなさい」
「ぎゃっ」
「ぎゃってなんですか、ぎゃって」

もう帰っていたのか。ドアを開けて感想を口走った瞬間に声が飛んできて、びっくり。それでも、ハイヒールを丁重に脱ぎ捨てマスクを顎まで下げ、リビングから顔を出した悠くんにダッシュで抱きつく。
あったかい。いいにおい。もー残業なんてしたくない!

「風邪ですか」
「あっ、そうだった。移るかも」
「移りませんよ」

スーツのままの私を子供みたいにして抱きかかえ、悠くんは私をソファに座らせる。
もう頭が痛いし、鼻はずるずるしたり詰まったりだし、喉はガサガサだし。一日中マスクを着けていたせいで耳も痛い。
悠くんは立ったまま屈んで、私の額に手を当てる。

「熱はないよー」
「…いつもより若干熱いですよ」
「うっそー」

ちょっと、笑う。
悠くんといると、良いな。なんか、落ち着く、というか、穏やかな気持ちになる、というか。
鼻をすすると嫌な顔をされて、ティッシュを寄せられる。仕方なく一枚取って、ちーんとすると、かみすぎた鼻がちょっと痛い。

「具合は悪そうですが、元気そうですね」

悠くんがそうやって穏やかに頬を緩めるから。私はならって、うん、と呟く。
鼻と喉は不快な症状を訴えているけど、熱もないし体もだるくない。

「でも、帰りの電車でさあ」

座れたんだよね、奇跡的に、と思ったら次の次の駅でさ、買い物した荷物いっぱい持ったおばあちゃんが乗ってきてさ、杖ついてんの、でも席は空いてないんだよね、しかも誰も譲んないの、しかも私の前に立っちゃってさ。
悠くんは、隣に座って私の話を黙って聞く。手を握ってくれたから、なんか心強かった。
こっちはさ、鼻ズビズビさせながら残業までしてやっと仕事終わった! 帰れる! 頭痛い! ってなってんのにさ、杖ついたおばあちゃんが前に立っちゃったのよ、仕方ないから立ったよね、仕方ないから、普段ならまあ良いかなって思うんだけど、杖ついて電車とか危ないじゃん、どう考えても、そんなん分かりきってるんだから、タクシー乗れよ!ってなんかちょっとムカムカしちゃった。
そう言ったら、悠くんは黙って私の頭を撫でる。
こんな、人には言えないような嫌な気持ちすら、悠くんだけには言える。悠くんは、私がどんなに嫌な女でも嫌いにならない。
そんな、根拠のない自信が、私にはある。
悠くんはどんなときでも、一般論じゃなくて、私の気持ちを尊重してくれる。私の感情を第一に優先してくれる。
そんな、またしても根拠のない自信。
それを与えたのは他ならぬ悠くんなんだけど。

「迎えに来てって、言えば行きましたよ。ていうか、終わったって連絡が来たら行くつもりでした」
「えっ、ほんと? でも悪いし」
「具合が悪いときくらい、わがままを言っても良いんですよ」
「私、結構いつもわがまま言ってるよ」

また悠くんは伏し目がちに頬を緩める。それが、実はすごく好きだ。
睫毛が綺麗で、通った鼻筋がでも男性的で、こけた頬と顎へ続く輪郭が、外国映画の登場人物みたい。
見惚れてたら、悠くんが目が合わない程度に、目蓋を上げた。

「気がつきませんでした」
「悠くんは心が広いんだねー」
「それはないですけど」

断言した言葉の強さにまた笑って、悠くんに凭れかかる。
相変わらず鼻はズビズビしてるけど、それよりは鼻が利かないことの方が問題だった。

「それでも席を空けるなまえさんは、世界で一番優しいですよ」
「やっぱり!? 私もそう思った!」

冗談を重ねれば、悠くんはまた私の頭をよしよしと撫でる。

「とりあえず、着替えて顔を洗ってきてください」
「えー」
「その間に、ホットミルクを用意しておきますから」
「仕方ないなあ」

悠くんといると、大体笑ってるなと気づいて立ち上がる。寝室のクローゼットの一角に置いてある、私の着替えを目指して。
悠くんが、ああ忘れていました、と言うから振り向いたら。

「今日も可愛いですよ」

と、キス。
驚いて固まっていたら、マスクでファンデが取れている上に、ティッシュでかさかさの鼻の頭にもキス。
いってらっしゃい、と背を押されて、私は幸せな気持ちで寝室に向かった。