「あっちー!」
なんと、掃除課執務室のエアコンが壊れた。朝来て、窓を開けて空気の入れ替えをして、簡単に掃除。窓を閉めてリモコンを使うも、うんともすんとも言わない。押せども押せども、電源の入る気配はない。
本体を確認してもダメで、管理部に連絡をして修理できる人を回してもらうことにしたが、来れるのは午後一だそう。
上下黒スーツを着用している私たちには正直暑い。
窓を全開にして、借りてきた扇風機を回して、ジャケットを脱ぐ。
今日はたまたま薄手のノースリーブシャツで、なんとか汗をかかずに済んだ。
夜行掃除人もジャケットを脱いで、黒シャツをまくっているくらいだ。
もう少しで午後というところで、内線が鳴った。
来たか! と誰よりも素早く勢い良く電話を取る。
「はい! 掃除課、みょーじです」
「…お疲れさまです。立会課、弥鱈です」
「えっ、ああ、お疲れさまです、みょーじです」
「…はい、さっき聞きました」
「はっ、そーでした。すみません。こちらにご用ですか?」
「夜行掃除人はいらっしゃいますか」
「はい、おります。代わりますね」
保留ボタンを押す。受話器を置いて夜行さんに、弥鱈立会人からお電話です、と告げる。
暑さに苛々している夜行さんは私を一瞥しただけで、デスクの電話を取りボタンを押す。
私といえば、弥鱈さんと電話越しに初めて話してちょっとテンションが上がっていた。
執務室を回って備品の在庫を確認し終わり、パソコンを付けて入力。暑いから一度中断して、全員のデスクを見渡す。
始業時に出したコーヒーも飲み切っただろうし、給湯室に立って自分用のアイスココアと、アイスコーヒーを大量生産する。
各デスクを回ってコーヒーを注いでいたら、執務室のドアがノックされた。唯一立っていた私が出迎えに行く。
「失礼します」
「はーい、あら」
立っていたのは弥鱈さんで、お互い一瞬固まって、会釈を交わす。
気づいた夜行さんが、手前の応接セットにやってくる。
「あ、弥鱈立会人、いまうちエアコン壊れてて、暑かったら脱いでください。いまコーヒーお持ちしますね」
「…はあ、ありがとうございます」
夜行さんのデスクからコーヒーカップとソーサーを回収し、給湯室に戻る。
トレーに二人分用意して、夜行さんと弥鱈さんに出す。ふたりは書類を広げて話をしていた。
途中だったコーヒーレディを済ませ、自分のアイスココアを持ってデスクに戻る。
中断していた在庫入力を済ませ、発注書を引っ張り出して足りないものの欄に個数を書いていく。
昼休憩までに済ませて提出しようと、暗算を繰り返す。
私も下っ端だった頃は、毎日沢山やることがあった。立会の資料を古いものから順に読み、より重要とされているものは更に控える。掃除の報告書のまとめを読んで、傾向と対策を記憶する。
たまに、夜行掃除人から指定されたもののレポートを書く。
覚えることが沢山あるのだ。
賭郎の生い立ち、立場、心構え。それ以外にも、毎日、立会人や先輩掃除人と暴の研鑽を積んでいた。
コーヒーレディやこういった雑務を回されるようになるまで、とても長かった。
そんなことを考えているうちに裏面まで記入し終えて、できた! と席を立ってジャケットを羽織れば、なんと丁度いい具合に弥鱈さんも書類をまとめていた。
誰ともなく、管理部行って来まーすと言い、何人かが返事をしてくれたので社用携帯電話をポケットに入れてドアを目指す。
弥鱈さんもこちらに向かっていたので、ドアを開けて待つ。
「失礼しました」
「はーい」
すぐそこにいる私が返事をするのもおかしい感じがするが、気にしない。
弥鱈さんは暑くなさそうだ。
「暑くなかったですか?」
「…まあ、少々」
「うちはみんな参ってますよ」
「夜行掃除人も暑そうでしたね。…コーヒー、ご馳走さまでした」
「、いいえ! お気になさらず!」
弥鱈さんは少し口角を上げて、私はまた恥ずかしくなる。
エレベーターが近づいたのを良いことに、話題を変える。
「お戻りですか?」
「いえ、管理部まで」
「あっ、そうなんですね。…すいません、私も…」
「そうですか」
弥鱈さんは気にもせずにエレベーターのボタンを押す。
行き先まで一緒なのは、少々予定外だった。何を話して良いか分からない。でも黙っているのもなんだか気まずい。
きっと弥鱈さんはそんなこと微塵も気にならないんだ。
持っているたった一枚の用紙を両手で持って見る。
部署名も書いた、担当者名も書いた、判も押した。よし、問題ない。
まあ、在庫はいつも多めに頼んでいるからなんとかなる。
「みょーじさんもお綺麗ですね」
「へっ」
「字」
「…ああ! ふふ、よく言われます」
弥鱈さんのような明朝体ではないけど、なかなかバランスの良い字だと自負している。
しかし、最初の言葉には主語がなくて焦った。弥鱈さんが、そんなことを言うはずはないが。ちょっと、ドキッとして、悔しい。
「あ、今月の病院利用の書類、私が弥鱈立会人の分書きましたよ」
「そうですか」
「お名前、なかなか上手く書けたと思うので、チェックしてみてくださいな」
「楽しみにしています」
こうやって、ちょっと嬉しくなる返事をするから、私はダメになる。人のせいにしちゃいけないけど。
少しの沈黙の後、エレベーターが管理部のフロアに到着する。弥鱈さんが開のボタンを押してくれたから、礼を言って先に下りて待つ。
ひとつ分のノックで、ふたりで入ったけれど発注書一枚を渡すだけの私は、管理部の社員と話し込む弥鱈さんをちらっと見て先にそこを出る。
吐きそうになった溜息を、ギリギリで飲み込んだ。
しっかり定時に上がって、ビルのエントランスで夕湖と待ち合わせる。
基本的に持ち出し禁止のものばかりだから、社員は皆身軽に出退勤している。
私も例に漏れず、社内で使っているものとは別の黒革のクラッチバッグのみを持って、緩くなってきた巻き髪を気にしながら彼女を待っていた。
「なまえ、お待たせ」
「夕湖、お疲れさまー。待ってないよ」
「もーお腹ぺこぺこ」
「私もー。早く行こ」
夕湖はいつも通りのシュッとしたパンツスーツで、確かに女性ファンが多いのも頷ける。
ふたりで風を切りながら、ビルの自動ドアを出ると温い風が付きまとう。やばい、暑い、と言いながら、予約している店をまっすぐ目指す。
寄り道する暇はない。外は暑いし、お腹は空いているし、喉も渇いている。
あちー、とか人多すぎ、とか生産性の無い会話をしながら歩いていたら、前に若いカップルがゆっくり歩いていた。
ちらりと夕湖を見れば目が合って、速度を乱された私たちの言いたいことは、言わなくても一致しているらしい。
しかし、私たちはそれを抑え込める程度には大人なので彼らに合わせて速度を落とす。
自然、若いカップルの会話が耳に入るが、私は早く人目を気にせず夕湖と喋りたいと心の底から願った。
「おつかれー」
「おつかれー」
夕湖は生ビールを、私はカルピスサワーを持って、ごつんと乾杯をする。ビールは、飲めなくはないけど好んで飲みはしない。
とりあえずハイヒールを脱ぎたい私たちはいつも小上がりを予約する。今日も勿論そうで、ジャケットまで脱いでサワーを一気に半分ほど飲む。
渇いた喉に冷たいそれは、生き返る錯覚がするほど心地良い。ジャケットを脱いで袖を捲った夕湖も同じように喉を上下させている。
「っはー、生き返った」
「さすがだね、私も同じこと考えてた」
「スーツ暑すぎ」
「夕湖は確かに暑そう」
一息吐いて、お通しに箸を付ける。冷たいマカロニサラダはちょっとピリッとしていて夏らしい。
おつまみが来るのを、いまかいまかと待っているのだ。
「ねえねえ、さっきのさぁ」
「アベック?」
「夕湖、たぶんそれ死語」
「ダメだ、疲れてる」
「あのカップルのさあ、女の子、ちょー可愛かった」
「私たちとは正反対な感じだったね」
「うん。なんか…すごいよね」
「…なりたい?」
「無理。恥ずかしい。キャラじゃない」
「別に、なまえそんなにキャラじゃないことないよ」
「いやいやいやいや」
「ちゃんと女の子してるじゃん」
「そぉかなあ」
「スカートだし、髪長いし、ちゃんと化粧してるし、いろいろ気ぃ遣ってるでしょ」
「あー、そういうの…そういうのは…そうだけど」
「?」
夕湖が無言で続きを促しながら、ビールを煽る。
お通しはさっさと食べ終わってしまって、割りと手持ち無沙汰だった。
早くつくねを食べたい。チーズつくねも食べたい。
「なんかさ、こう、見た目? はやっぱり綺麗にしてたいんだよね」
「うん」
「私、髪長いの好きだし、巻いたりするの好きだし、ハイヒールも好きだし、テンション上がるし、ばっちり化粧した方がまだマシだし」
「十分可愛いよ」
「いや、そんなことはないんだけど。そういうのは、大丈夫なの。なんだけど、なんていうの? ああいう、女の子女の子するのが無理」
「あー、ぶりっこ的なね」
「うんうん、そうそう。恥ずかしーってなるよ、絶対。だって私、普段こんなんじゃん」
そう言って、残りのカルピスサワーを飲み切る。
いつだって私は、私の言った言葉で傷つく。私にそういう呪いをかけている。
それに私はちゃんと傷ついてる。
「なまえはさぁ、考えすぎってゆーか、卑下しすぎってゆーか。私の周りだと、かなり女の子な方だよ」
「ええ〜…分かんないよ」
「最近、どーなの? 好きなひとできた?」
「おっ…と、そこ来る?」
「なんか、毎日楽しそうじゃない?」
「まあ…うん、どーなのかな」
「ん、その反応はいるな!」
「待って、勝手に進めないで」
「進めてないって。良かったじゃん、まだそういうのが出来て」
「あーそれは、あるね。あっ、まだ私ドキドキできるんだ、って感じ」
「えー、だれだれ? どーせ社内でしょ?」
「いや、言わないし」
正直、知られているかもとは思っていた。喫煙所で会話をしてからここ一ヶ月ほどで、急速に仲が良くなった感は、ある。他人の目が全く無かったかというと、そうでも無い。
お互い、それなりに好意的に、友好的に、接しているのは多分夜行さんにもバレている。
それでダメだったときが、気まずいんだけど。
「どーなの、相手は」
「…いーひとだよ」
「いー、ひと、かぁ」
「あれ、さてはやっぱり知ってるな?」
「知らないよ、ほんとに。うちの人たち、あんまりそういうの言わないって」
「あーそうかも」
「限られてるじゃん、そういうのスキな人たち」
「クイーンとことか?」
「そうそう」
愛想の良い店員がつくねたちと、夕湖のなんこつの唐揚げを持って来たから、ついでにお酒をそれぞれ頼む。
夕湖とこうして飲むのも久しぶりで、暑くなってきた春と夏の間に冷たいアルコールは、それはそれは最高だった。
「でもなんか、こういうの久しぶり過ぎて、難しいってゆーか」
「…長かったしね」
「まあ、終わるときは一瞬だよ」
「なまえには相応しくなかったんだって」
「うん、いまなら私もそー思う」
ちょっと、しんみり。
でも、好きだったっていうのは、本当だった。信じられないけど。見る目がなかったと言うしかないけど。
「でもやっぱり、私たちは社内の方が良い気がするよ」
「…隠し事もしなくて良いしね」
「そーそー、絶対大変だって」
賑わう店内、これから夏本番に向けて、きっともっと騒がしくなっていく。夏って、そういう季節なんだと思う。
暑くてのぼせた頭に、フワッとしたテンションで。
私たちにはそんな余裕はないけど。
串に残さないように気をつけた、つくねが美味しい。そもそも久しぶりに食べる。
弥鱈さんは、何を飲んで何を食べるんだろう。
夕湖に生ビール、私に巨峰サワー。またふたりで勢い良く傾ける。
「そーいう夕湖はどうなの」
「別にー、ときめくこともないし…」
「なんか私が恋愛体質みたいじゃん」
「なまえはね、そういうんじゃないんだよ」
「どういう?」
「なまえには、なまえの他に、なまえを肯定してくれるひとが必要なんだよ」
ぐび、とサワーを飲む。
ドキドキした。
夕湖にも、やっぱりバレてるんだ。
「自分のことは信じられなくても、他の誰かに言われたら信じられるんだよ、きっと」
「…うん」
「そういう、ひと?」
「…うん、たぶん」
軟骨の唐揚げをひとつ奪って、噛む。喋らなくても良いように。
例え夕湖でも、こういう私の至らなさを晒すのは恥ずかしい。
「それなら良かった」
私も、そう思うよ。
弥鱈さんの、あの距離感は、きっと分かってやってるんだって、思いたい。
近づき過ぎたらまだダメなんだって、パーソナルスペースに侵入することを、まだ私が許していないのを知っている。
ただの私の、考えすぎかもしれないけれど。
これじゃあなんだか、弥鱈さんも私を好きみたいだ。
…も?
「なまえ、百面相」
言って、夕湖が笑った。
「仕事のときは、そんなことないのにねえ」
目を伏せた夕湖は、とても綺麗で羨ましい。長い睫毛が、女性らしくて。
「なまえ、幸せにならなきゃね」
「…夕湖もね!」
「きっと、そのひとの前でなら、女の子女の子できるよ」
「…それは分かんないけどー」
女という記号であることは、抵抗無い。それはただの形だから。
けれど、女という性質を持つことには、抵抗が有る。
うまく言えないけど、私には出来ないなって、目で見てしまう。
「大丈夫、私が言うんだから」
「…ありがと」
多分、私は弥鱈さんが好きで、でもそれを認めたくない。
また誰かを好きになって、そしてまたその人に傷つけられることを恐れている。
私の柔らかいところを知っている人に、それを抉られることを恐れている。
でもどこかで、弥鱈さんはそんな人じゃないんじゃないかとも思っている。
そんなの、前の人でもそうだったのに。
切っ掛けがあれば、人は変わってしまう。
それが、怖い。
怖い、けれど、好きになってしまったら、すべてはもう、手遅れ。
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