水曜日、出勤連絡をして社用携帯電話の画面を消そうとしたところで、勤務している病院からメールが入った。
私宛の郵便物が届いているから、取りに来られなさそうなら届けますといった内容で、午前中に会議があるから昼休憩で取りに行くと返信した。
病院に、私宛の、郵便物。
嫌な予感しか、しない。
そこに私が把握していなくて、私個人宛で届くものなんてない筈なのだ。
気になって胸がざわつく。
少し、手の中の携帯電話を睨んで、それがスリープモードになって真っ黒な画面に私が写ったとき、我に返った。
まだ確定していない不安で、精神を乱されてはいけない。いつでも平静な状態でいなければ。
例えその不安が的中したからといって、何だと言うのだ。
昔関わりがあった人間から手紙が来ただけ。それで何故こんなに落ち着きを失うのか。
まだまだ精進しなくては。修行が足りない。
ふと思い出した先輩のセリフに、少し救われて一息吐いた。
会議に行く前に、コーヒーを飲もうと給湯室に行った。味に拘りはないからちゃちゃっと作ってミルクとシュガーを入れる。
デスクに戻って、ゆっくり味わう。苦い。これで切り替えなくては。
本日の会議は各課で数名のみ出席するもので、管理部主導のもと行われる。今週あった、トラブルなどを全て報告し今後の対策を講ずる、といった内容で、この会議が終了後、各課に持ち帰り報告することになっている。

「みょーじ、なにのんびりしている。行くぞ」

夜行掃除人にそう声をかけられて、生返事で給湯室に向かう。さっとコーヒーカップを洗い、いつものクラッチを持って執務室を出た。








お堅い会議を終え、掃除課執務室で夜行掃除人が会議の報告をするのを再度確認した。やることがあるとあっという間に昼休憩になる。病院の方と違い、就業時間がきっちりかっちり決まっているわけではなく、おおよその目安として存在している程度だけれど。
今週もなかなか大変だったようで、会議が始まる頃には郵便物の件もどこかへ行っていた。
先に受け取ってからお弁当にしよう、と賭郎本社ビルから徒歩三分の病院へ向かい、裏から入りナースステーションで手紙を受け取る。平静を装い、礼だけ言って速やかに帰ってきたが、それは一通の手紙で、差出人は如何にも元彼氏だった人物のフルネームだった。
クラッチにしまって、執務室を目指す。愚かにも手が震える。
エレベーターに乗り、執務室の階のボタンを押してから、やっぱり喫煙所の階のボタンを押した。煙草には精神安定作用がある、気がした。
いまなら大体従食にいるだろうという期待は見事に裏切られ、エレベーターを下りたところで透明のブース内に黒い影がちらほらあるのに気づく。
しかしここまで来て引き返すのも不自然だろうと下を向いたまま早歩きでブース内に入る。手前の端の灰皿の付いたテーブルが空いていたから、クラッチを置きまず煙草に火を点けた。
大きく吸い込んで吐き、うるさい心臓に苛々しながら、小さく震える手で、もう一度クラッチを開いた。白い安っぽい手紙を取り出す。焦る指をセロテープの隙間に入れ、少しずつ剥がしていく。
開け切ったところで、煙草に手をやり吸って吐いて、灰を落とした。
咥え直して、両手で手紙を取り出し開く。びっしり書き込まれた黒さに、眩暈が、した。
図々しくも一番上にはなまえへ、と書かれている。
もうお前にそう呼ばれる筋合いはない。
文字を辿る。手が震える。視界が、ぼやける。咥えていた煙草を噛み締めた。
熱さを感じて、右手で煙草を摘まむ。もうフィルターまで焼けていた。灰皿に擦り付けて捨てる。
息を吐いた。
もうこれ以上読みたくない。きつく目を閉じたら涙が溢れて、結んでいた口から、声が出そうになった。

「みょーじさん、」

呼ばれて、アレが呼ばなかった名字で、アレと違う低い声に、目を開けて顔を上げた。
涙がぼたぼた落ちているのを自覚したし、大股数歩で目の前に来たらしい弥鱈さんの後ろで、黒スーツの人たちにさりげなく見られていることにも、気づいた。
視線を合わせたまま動揺して動けない私に、弥鱈さんは素早く私のクラッチに煙草とジッポと取り上げた手紙をそのまま仕舞って、押し付ける。
もたつきながら掴んだところで、肩を抱かれるようにして連れ出された。
引っ張られるようにして辿り着いたエレベーターの前で肩を解放される。弥鱈さんは動くランプを見上げていて、私は泣きながら下を向いていた。
エレベーターが開いたら今度は二の腕を掴まれて引っ張られる。ドアが閉まる。弥鱈さんの押したボタンを盗み見たら、最上階にランプが付いていた。屋上に行くんだ。
けれど、無言で、弥鱈さんは黙って私を端に寄せて隠すように立つ。私も下を向いて唇を噛む。
乗ってきた人たちをやり過ごし、またたったふたりでエレベーターを下りた。腕を掴まれながら階段を登り、弥鱈さんはやすやすと扉を開ける。
塔屋の影に連れて行かれて。

「大丈夫ですか」

噛んでいた唇を解放したら、ひっと喉が痛んだ。
弥鱈さんは胸ポケットから刺繍入りのハンカチを取り出し、私の目の下に当ててくれる。
もう抵抗する気力もなくて、ただただ黙って泣いていた。

「あんなところで、泣き出すなんて、」

抑揚のない低音に、いつもの態度を忘れさせる早歩きに、優しい右手に。
何か吹っ切れた私は、しゃくり上げながら、手探りでクラッチから手紙を取り出す。クシャクシャに握り締めたそれを、その胸に押し付けた。
受け取ってくれるまで、ぎゅうぎゅう押す。躊躇うように大きなかさついた左手が、私の右手を制し、手紙を抜き取った。

「…読んで、いいんですか」

頷く。
いま口を開けたら、あられもない泣き声しか出せそうにない。
引き攣るように喉が痛む。
ちがう、いたいのは、こころだ。
終始俯いている私を、弥鱈さんはハンカチを仕舞った右手で抱き寄せた。黒いスーツに化粧が付く、と思って、落ちてきた前髪越しに額だけ当てる。
枯れるほどに泣き、正気を取り戻し始め色々恥ずかしくなってきたけど、もうなんだかどうでも良い。
持っていたクラッチを足の甲に落とす。中のものに衝撃がないように足を動かし地面に預ける。
弥鱈さんの腰の辺りを両手で掴んだら、頭に置かれていた右手がゆるゆる動き始めた。

「…すいません」
「…いいえ」
「死ぬほど恥ずかしいです」
「…落ち着きましたか」
「…はい」

顔を上げられない。
当然、抱き締められているようなこの体勢も十二分に恥ずかしいわけだが、いやもう全てが恥ずかしくてダメだ。
右手が頭から下がり、ぎゅうと背中を押す。化粧ついちゃう、と抵抗しながら言うと、弥鱈さんは右手でさっとスーツのボタンを外してジャケットを広げ、ワイシャツに私の顔をまた押し付けた。

「み、だらさ、」
「なぜ泣いたんですか」

黙る。

「まだこの男が好きだからですか?」

一拍、置いて。

「違います!!!」

勢い良く顔を上げた。
眉間に僅かながら皺を寄せた弥鱈さんと目が合って、恐らく顔がぐちゃぐちゃであることを思い出した。
弥鱈さんには、なぜか、そんな私を見られたくないと、思った。

「やばい、絶対化粧取れてる、」

会話をぶった切って、腰に落ち着いていた手で顔を隠す。
弥鱈さんの手が、頭を撫でる。

「大丈夫ですよ」

弥鱈さんは畳んだ手紙を自らのポケットに入れ、私の手を退かす。間に入ろうとしたもう一方の手もするりと取られ、私は両手首をそれぞれ拘束されて、塔屋の壁に押し付けられた。

「ひ、っ、弥鱈さん、なにを、」
「大丈夫。いつも通り、美人です」
「な、やめてください」

俯く私に、覗き込むように体勢を低くされて、もう意味がない。
なんとかそっぽを向き、ぎゅうと目を閉じる。

「…まだ好きですか」
「好きじゃありません。許可が出れば、殺したいくらい嫌いです」
「ではなぜ、泣いたんですか」
「…分かんないです。…ただ、悔しくて腹立ってムカついて、かーってなって、」
「また傷ついたんですね」
「、」
「酷いことを言われて傷ついて、なのにまた貴女を踏み躙るような言葉で傷つけられたから、泣いたんですね」

優しい声音を聞いていたら、あんなに泣いたのにまた涙がこみ上げてきた。
唇が震える。

「良かった」

え、と思うも、両手首が解放され、あっという間に両腕で抱き締められて顔を向けられない。ワイシャツに顔の左側を当てながら、次の言葉を、待つ。

「貴女がまだこの男を好きでなくて良かった」

耳を疑って、疑って、涙が止まった。








手紙の内容を簡略にすると、こうだった。

あの女に、なまえは冷たい、何もしてあげてないと言われてだまされた。
毎朝起きたら部屋がきれいなのも、料理も弁当もうまかったのも、シャツもスーツも靴下もネクタイもきれいだったのも、全部なまえが俺を愛していたからしてくれていたんだって気づいた。
あの女は何もしてくれなかった。
起きたら窓は開いていないし、床や洗面所には髪の毛が落ちてる。
朝ごはんは安いトーストにコンビニのまずいサラダと薄いコーヒーで、弁当は全部冷食だった。
夕飯はスーパーの惣菜ばかり。
シャツはよれよれ、スーツはシワだらけ、靴下は揃ってない。
この前上司に怒られた。
なまえよりずっと家にいる時間が長いくせに。
生活費も全部俺が出しているから遊ぶ金もない。
俺はだまされていたんだ。
もう一度、一緒に住もう。
もう一度、ふたりで幸せになろう。

封筒に戻されたこの手紙は、弥鱈さんのライターで燃やされて、小さい焦げカスになって風に吹かれていった。
結局、泣いて泣いて、全部話した。
付き合っていた人がいたこと、同棲を始めて半年ほどで浮気を疑い始めたこと、それが少しずつ確信に変わったこと。
私って、こんなに泣けたんだなと頭の片隅で冷静に思った。
あの塔屋の影、コンクリートの地面に、壁に背を預けて座った弥鱈さんの足の上に座り、その胸に寄りかかりながら。
もう何だか、恥ずかしいのを通り越して、どうにでもなれという気分。
弥鱈さんは、私の取り留めのない話を聞きながら、ずっと頭を撫でてくれていた。それが、とても心を落ち着かせてくれるのを、私はすっかり忘れていた。
きっと昼休憩はとっくに終わっていて、けれど弥鱈さんは一切時間を気にすることもなく、黙って私の話を聞いていた。

「身体中の水分が出ていった気がします」
「それだけ泣けば、すっきりしたでしょう」
「しましたけど、いま最高に不細工なので見ないでください」
「それはできない相談です」

優しい手が髪を梳く。
すん、と鼻をすする。

「弥鱈さん、優しいんですね」
「…貴女にだけですよ」
「…本当ですか?」
「はい」
「…自惚れますよ」
「…ぜひ」

少しだけ顔を傾けて、見上げた。
目が腫れているのが自分でも分かるから、少しだけ。
目が合って、すぐ反らしたけど、キスされた。
ああ、なんか、久しぶりな感覚。
何も言えなかった。

「…どうするんですか、アレ」

弥鱈さんが、風に吹かれていく燃えカスを見遣る。

「無視します。直接来たら、弥鱈さんどーにかしてください」
「懸命ですね」
「…ん」

この固い胸板が、落ち着く。目を閉じる。
スーツは全社員ご用達のクリーニング店で、香りのない柔軟剤を使っている。
だからきっと、これは弥鱈さんの匂いで、僅かに煙草の匂いが混じる。
細く薄く見えるけれどやっぱり男の人で、体はどこもかしこも筋肉で固い。
このまま寝落ちしたいけれど、正直どうやってこの場を収めて良いのか分からない。
だから何か、何か言って欲しい。

「…今日の夜は、空いてますか」
「…、はい」
「お酒を飲みに行くか、静かなところで飲むか、どっちが良いですか」

考える。
お店か、静かなところは…ホテルか家か?
今日着けている下着を考えたところで、ちょっと笑えた。

「…静かなところで、スパークリングワインが飲みたい、です」
「分かりました」

瞼にキスが落ちてくる。
ぼやけた頭で考える。執務室に戻ったら、冷凍庫の保冷剤で瞼を冷やす。経口補水液で水分補給をする。
落ち着いたら、顔を洗って化粧をし直す。定時に、上がる。

「戻れますか?」
「…頑張ります」
「終わったら連絡します」
「定時で上がれそうですか?」
「上がります」

もう一度、唇が触れて、この時間が惜しい。

「連絡先、教えてください」
「…はい」

勿論、社用携帯電話には全社員の連絡先が入っている。
私は返事をしながら、ロックを解いたピンクの携帯電話を渡す。
受け取った弥鱈さんは、連絡帳に手早く電話番号とメールアドレスを打ち込み、ラインをいじり出す。
やっぱり女子高生だ、と思いながらあっという間に連絡先交換終了。
私の携帯電話をクラッチに戻してくれて、立たせてくれる。
軽く抱き締めてくれて、頭を撫でる。

「ではまた」
「はい、待ってます」

私に、こんな幸せが降ってくるなんて思いもしなかった。










あの後、執務室に戻ると夜行さんは御屋形様付きの仕事が入って留守だった。執務室にいるすべての人の視線を感じたが、明らかに泣き腫らした顔の私に話しかけることができなかったらしい。
口煩く喧嘩っ早い掃除人は運良く休みだし、私は何にも干渉されることなくデスクで保冷剤を瞼に当て続けた。
私は定時までの殆どを瞼を冷やす作業に費やし、残りの時間は化粧をしていたら終わった。
とんだ給料泥棒だ。
しかし私はよく奉公しているから良い。こういうときくらい良い。
ウチはそもそも特殊故にユルいのが良いところなのだ。始業時間も昼休憩も終業時間も、あくまで目安、立会いや取り立てや掃除が無いときの話で、あるときは深夜だろうが早朝だろうが駆り出されるのだから。
黒革のクラッチの中を整理しながら、五時五分、私用の携帯電話の方が、ロック画面に通知を寄越した。
それは待ちに待った弥鱈さんからで、素早くスライドして全文を確認。
エントランスの前にいます、とだけで、いま行きますと返信した私は社用携帯電話で速やかに退勤連絡をし、荷物をすべてクラッチにしまう。マグネットを退勤の位置にずらして、執務室を出た。
エレベーター内の鏡で、直した巻き髪を見、泣き腫らす前と同じ顔を見、短いスカートとベルト無しのガーターストッキング、お気に入りの13センチハイヒールを確認。
完璧、大丈夫、カワイイ、キレイ、と唱えて一階ホールへ。真っ直ぐエントランスを出ると、正面に社用車かと見間違えそうな黒塗りの左ハンドル。
手に持っていたピンクの携帯電話が震え、画面を見ると、助手席、と単語が来ていた。
助手席側を歩道に付けて停めたのも、きっと弥鱈さんが気を利かしたからなんだ。そう思いたい。
そろ、と開けて恐る恐る乗り込む。

「お疲れさまです」
「…お疲れさまです。びっくりしました」
「…何がですか?」
「すごい、車で」
「ああ、あまりこだわりが無いので」

きちんと膝をつけて足を揃えて、クラッチを膝の上に置きシートベルトを締める。
無駄なものが一切無い車内。無音。うっすら弥鱈さんの匂い。
なんか、ドキドキする。
男の人が運転する車の助手席なんて、久しぶりすぎる。

「すっかり元通りですね」
「え?」
「とても、お綺麗ですよ」
「…またまた、ご冗談を」
「冗談を言っても仕方ないでしょう」

恥ずかしくて恥ずかしくて、火が出そう。
緩やかに発車した車が、どこに向かうのか私は知らない。信号での止まり方、ウインカーを上げるタイミング、右折の滑らかさ。
弥鱈さん、らしい。なんだかそんな気がする。
どうして良いか分からずに、ぼんやり窓の外を眺める。
するする車は進んで、超有名ホテルの駐車場に入った。
静かなところ、弥鱈さんのあげた選択肢、私が選んだほう。
最初からそれを選んだのは、はしたなかっただろうか。誰にも聞けないけれど。
手続きも速やかに終わり、エスコートされて着いたのは高層階の部屋で、一面ガラス張りの窓からはまだ明るいけれど綺麗な夜景が見られそうだった。

「わー、すごい」

窓には触れず外を見下ろしたり、ふたつ並んだ大きなベッドをしげしげと眺めたり、ふかふかそうなソファをつついてみたり。
弥鱈さんはクローゼットのハンガーにジャケットをかけながら少し口角を上げていた。

「楽しいですか」
「えっ、いや、えっと」
「喜んでいただけたようで何よりです」

だって、さすがにこういうところ、来たことないし。
前の人も稼ぎは悪くなかったけれど、甲斐性はなかったし。
ネクタイを緩めてボタンをひとつ外した弥鱈さんは、私の後ろに立ちジャケットを脱がせて、ソファに座るように促す。
今日のインナーは、リボンタイのノースリーブシャツで、ゆるっとしつつ体のラインに沿った作りがお気に入りだった。
いつも手を抜かなければ、何かあったときも余計なことで気を揉まなくて済む。
お腹が空いてるでしょう、とルームサービスのメニューを見せてくれたけれど、ありすぎて目移りした。結局、デニッシュのサンドウィッチやらピザやら、食べやすいものを弥鱈さんが頼んでくれて、私はソファに凭れる。手持ち無沙汰だ。
ぼんやりしていたら、弥鱈さんはワイングラスをふたつと、栓を抜いたスパークリングワインを持って来てくれた。
グラスを渡されて、静かにそれが注がれる。
弥鱈さんはもうひとつにも注いでボトルをテーブルに置き、隣に腰かけた。
無言で乾杯をして、かちりとぶつかったグラスに口をつける。

「ん、甘い」
「…ほうがお好きかと」
「よく分かりましたね!」

弥鱈さんは無言でグラスを傾け、空にする。甘いのは、なんとなくだけれど、好きでなさそう。

「おいしー」

くぴくぴ飲んでいると、おかわりを注いでくれて、素直にそれを受ける。
冷えたワインと、口の中で大きく弾ける炭酸が心地よい。
なんとなくフワフワしてきて、ちょっと距離を詰めて弥鱈さんに寄りかかる。
上目遣いで様子を探ると、目が合ってドキドキした。けれど特に反応はなく、寄りかかったまま、冷えたそれを流し込む。拒否されないだけ良い。
こうやって、女性としての扱いを受けるのも、まあ悪くはない。いまのところ。
くるくると、僅かに残ったワインをグラスの中でもて遊びながら、肩に伝わる固さを堪能する。
そうそう、おとこのひと、ってこんな感じだったなあ。固くて、厚くて、なんとなく安心感。
私の身体には、無い感触とパーツ。
私と弥鱈さんの輪郭というか、境界線というか、そういうものが曖昧になってきて、眠くなってくる感じ。
でもとりあえず、ルームサービスが来るまでは、落ち着いていたい。そう考えていたときに、インターホンが鳴った。
弥鱈さんは優しくゆっくり私の体を離し、うっかり目で追ってしまった私の頬に軽くキスをしてドアへ向かう。仕方なくワインを注いで、待つ。すぐに戻ってきた手には、やけに美味しそうなフードたち。
そりゃそうだ、ここはいわゆる高級ホテルなわけで。

「弥鱈さんて、カロリーメイトで生きてそうじゃないですか?」
「偏見ですよ」
「ピザ食べるとか想像できない〜」
「食べますよ。楽でしょう」
「…頼めば来るから?」
「はい」

熱いうちに、ととろとろチーズのかかったピザを頬張る。こういうのは、久しぶりに食べる気がする。
味わっていると、なんだかうずうずしてきて、ちゃっかり缶ビールを持って来て開けている弥鱈さんを見た。その気怠げな顔から、プルタブにかかる肉のない指を見、顔に視線を戻した。
気づいた弥鱈さんは缶に口を付けながらも、数十秒見つめ合う。
なんとなく探り合って、私は黙ったまま彼の太ももに横向きで乗っかる。その胸に体を預けると、やっぱり好みの匂いがして、さらに頭がフワフワしてくる。
動かずに堪能していると、弥鱈さんの左腕が私の背中からまわってきて太ももに乗る。
その温い熱と、ストッキング越しの感触に、じわじわ何かがせり上がる。
でもお腹も結構空いていたし、なんとなくはしたない気がして、体を離してピザを取り、サンドウィッチも食べる。デニッシュはサクサクだし、レタスはシャキシャキだし、マヨネーズもなんだかコクがあって美味しい。

「弥鱈さん」
「はい」
「これ、すんごいおいしいです!」
「…では私も」

弥鱈さんは右手の方を伸ばしてそれを取る。弥鱈さんにパンはいまいち似合わない気がしたけど、咀嚼するのを見つめる。

「確かに、おいしいですね」
「でしょ! やっぱりこーいうところはルームサービスも違うんですねえ」

何がおいしいって、毎日自炊をしている身としては、人様に作ってもらったという時点でおいしい。自分で作っていないだけでおいしい。
あまりの美味しさに両手でサンドウィッチを持って真面目に食べていたら、頭上から低い声が降ってきて顔を上げた。

「前に貴女が、喫煙所の前の休憩所で、恋愛相談を受けていたの、覚えてます?」
「…どんなんでしたっけ」
「最上立会人のところの黒服が、号泣しながら貴女にお付き合いしている人と別れるべきかどうか聞いてたんですよ」
「…ああ! 結構前じゃないですか? ていうか、聞いてたんですか」
「聞こえたんです。あれだけ大きな声だと」
「やだ、恥ずかしい」
「そのときに、貴女に興味が湧いたんです」

一旦間ができて、見つめ合う。

「別れるべきなのか迷っている彼女に、貴女、なんて言ったか覚えてます?」
「…なんて言いましたっけ」
「お金は捨てようか迷わないでしょう。迷うということは、要らないんですよって」
「…よく覚えてますね」
「どうしてあなたを大切にしない人を大切にするのか、さっぱり分かりません、とも」
「…言ったような、言わなかったような」
「言いましたよ。あなたの意に沿うものでなくても、最善を尽くせなかったとしても、あなたが少しでも悲しまなくて済む手段を取るのが誠実なのであって、あなたやあなたの気持ちを蔑ろにするのであれば、そんな人辞めるべき、と」
「なんでそんなの覚えてるんですか!」
「貴女、何の躊躇いも無く切り捨ててたでしょう。はっきりしてて、自立した女性だなあと思ったんですよ」
「…全然知らなかった」
「でしょうね」

それは、私がまだアレと同棲していた頃の話だった。
クイーンとは仲良くしているから、黒服の子とも面識があって、向こうも私を覚えていたのだろう。目に大量の涙を溜めながら、たまたま遭遇した私に、少々良いですか、と言ってきたんだった。
私はいいよ、と答え、私の大好きなアイスココアを彼女に奢ってあげて、彼女の話を聞いていた。あの言葉は彼女に言ったわけだけど、薄々浮気に気づいていた、私に言い聞かせた言葉でもあった。
ただ彼女の言うお付き合いしている人、の性別は未だに謎なままであるが。

「貴女はいつも、気丈に毅然としていたでしょう」
「…そうですか?」
「そうですよ。だから、気になっていたんです」

左手が、頭を撫でる。
その頃、私は弥鱈さんを意識していなかった。というか、彼氏以外の男性は男性と認識していなかった。

「お付き合いしている人がいるのは、風の噂で聞いていましたが」
「えっ」
「暫くして、有給を取っていたり、ちょっと辛そうにしてたので、まあ、別れたのかな、と」
「…色々と、よくご存知で」
「私には好都合でしたから」

その、何とも言えないむず痒さに、誤魔化すように冷めてきたピザを頬張る。
付き合っていた人と別れて、それが好都合っていうのは、つまり?

「弱っているところに、つけ込んだんですよ」

もぐもぐ、ごくん、としたところで、キスをされて、ビールの味を感じた。
弥鱈さんは、多分ビールが好き。心の中で唱えて、覚える。

「貴女が、私を見るように」

左手が、這うように太ももをなぞる。恥ずかしくて、その手に手を重ねたけれど、特に意味は成さなかった。

「弥鱈さん、」

つけては離れ、離れてはくっつく、唇。
私はまんまと罠にかかったわけだ。

「す、」

上唇をくっつけたまま、はあ、と熱い息を吐く。

「…き」

恥ずかしくて、きつくきつく目を閉じる。

「はい。私も、好きですよ」

こみ上げて、せり上がる、何かは、目からぽろりとこぼれて、私は両腕でその首にかじりついた。