彼が騒動を収めに行ってすぐ、彼女の華々しいデビューライブは無事に幕を引いた。が、尚も彼女は観客皆の全視線を一斉に浴びている。最早、流石のお手並みとしか言いようがない人気ぶりだった。
 彼女はファンの様子を一通り眺めると、マイクを片手に、満足そうにニコッと笑った。

「みんな、今日は私の歌を聴きに来てくれて、どうもありがとう! これからも応援よろしくね!」
「きゃー! アリスちゃん、頑張ってー!」
「一生、付いていきます!」
「やばい、可愛過ぎて死ぬ……」

 皆、少々発言が過剰なところはあるが、本当に彼女のことを応援しているのは伝わってきた。先の軽んじた認識は改めなければならないやもしれないな、と反省しながら賞賛の拍手を送っていると、彼女は「そうだ」と、何かを思い出したように呟いた。

「さっき私が歌ってる最中に、そこでちょっと揉めてるのが見えちゃったんだ。もしかしたらそれで誰かの気分を悪くさせちゃったかもしれないから、今日はそのお詫びと、デビューライブに来てくれたお礼に、先着100人のみんなに私のEMMAのトモダチキーワードを教えちゃう!」

 彼女の思わぬ発言に、盛大な歓声が湧く。

「まじか、最高かよ!」
「欲しい!」
「アリスちゃん神対応過ぎる……天使だ」
「だから、わたしとトモダチになりたいな〜って人は、このあとの握手会、是非来てほしいな!」

 ふと、天使のような笑顔を浮かべる彼女と目が合った気がした。しかしながら、芸能人のイベントに来て一番多く発生するのが「今、◯◯と目が合った!」と勘違いすることだ。よってわたしは、多分気のせいだろうと思うことにした。

「楓」

 名前を呼ばれて即座に振り返ると、そこには困ったような表情を湛えた彼が、そこにいた。

「おかえり……って、何かあったの?」
「いや、大事はなかったんだけど……ただ、注意しに行っても、誰も俺の声が聞こえてないみたいだったんだ」
 変な話だけど、と続けて彼は言った。そんなことがあるのかと、わたしも疑問を抱く。
「確かに変だね……洗脳でもされてるとか?」

 わたしは思いついたことを、気付けば口に出していた。半ば冗談、半ばアイデアといった具合の予想だ。
 案の定、彼は気が抜けたように「ははっ」と笑った。

「それは流石に無理があるかな……でも面白いアイデアだと思う」

 わたしより随分と背の高い彼が、普段通りにわたしの頭をよしよしと撫でてくれる。人前でされるのは少し気恥ずかしかったが、嬉しくて「えへへ、ありがと」と照れながら感謝を伝えた。

「……あ、そういえばね、柊アリスが握手会でEMMAのトモダチキーワード教えてくれるって」
「えっ、本当?」
「ふふ、うん。行って来たら?」

 すぐ食いついてきた彼は、やはり彼女のファンで確定だ。わたしは内心、予想が当たって喜んでいた。
 けれども彼は「うーん……でも、元々昼ご飯にするつもりだったし、申し訳ないからいいよ」と遠慮する。その顔には行きたいと書いてあるのに、わたしのために、彼は行くことを諦めようとしてくれているらしい。何という優しさか。彼は昔から、このように人を思い遣れる優しい心の持ち主だった。そして、わたしはそんな彼と恋に落ちたのだ。

「その気持ちだけで、わたしは十分お腹いっぱいだよ。ありがとう」
「楓……」
「ほら、折角の機会なんだから、早く行っておいでよ。わたしは……まあ、近くの『ビッグバン・バーガー』にでも入って、適当に時間潰しとくから」

 ね、と柄にもなくウインクすると、彼は照れ臭そうに「それじゃあ、お言葉に甘えて」と破顔した。

「ありがとう、楓」
「ふふ、いいのいいの。いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」

 こうしてわたしたちは、お互いに手を振り、笑い合ってから、それぞれ反対方向に歩き始めた。刹那、ガヤガヤと騒がしい人の波が、わたしたちを引き離していく。
 それでもわたしは幸せだった。彼を握手会に送り出すということが敵に糧を与えるのと同じだということを、何も、ただ純粋に知らなかったから。
 その日、わたしがどれだけ待っても、彼が「ビッグバン・バーガー」にやってくることはなかった。


 ・・・


 彼はあの日まで、確かにわたしを愛してくれていた。これは自惚れという訳ではない。二人で出かけるときはいつも手を繋いでくれたし、課題やアルバイトで疲れたときは「お疲れさま」と声をかけてくれた。あの日のデートだって、柊アリスの握手会より昼ご飯を優先しようとしてくれた。
 しかしながら、あの日以来、彼は音信不通が当たり前になってしまった。何もわたしにだけではなく、友人やご家族に対しても。
 中でもまだわたしは彼と同じ大学だったし、彼を探すことができたから、家族の方より心労はましだっただろう。まあ、例えわたしが話しかけても、彼は全く聞く耳を持ってくれなかったし、暫くすると大学から姿を消してしまったけれど。
 しつこく彼に付き纏ってでも、彼の側にいればよかったのかもしれない。もしくは、音信不通を理由に、彼に別れを告げればよかったのかもしれない。けれどもわたしは、あくまでも臆病で、どちらも実現することは叶わなかった。

  


戻る   玄関へ