そうして、いつの間にか二ヶ月という時が流れ、自然消滅というには不自然すぎる状況に、わたしは途方に暮れていた。幾ら彼に電話をかけても出ないし、彼の家を訪ねても居ないし、最早警察に捜索願いを届け出てもいいのではないかと考える程だった。そんなとき(昨日のことだ)、何の脈絡もなく彼から電話がかかってきたのだ。これには驚きを通り越して、感動にも似た情動が起こった。
 今までの仕返しとして「電話に出ない」という選択もあるにはあったが、やはりそれよりも心配や不安が勝ってしまって、わたしは彼からの電話に応答した。まあ、案の定というか、彼はわたしの呼びかけには全く答えずに「話したいことがあるんだ。明日の13時、大学のいつもの場所で待ってる」とだけ言うと、通話を切ってしまったけれど。それでも彼の声を聞けて、彼が生きているのだと分かって、わたしはとても安心した。
 そして、言い渡された通り大学にやってきて、あとはご存知の通りだ。
 空は相変わらず澄んだ水のように美しく、もくもくと立つ入道雲を夏らしく引き立てる。わたしが今ひとりで歩いている道も、コンクリートから立ち昇る熱気が陽光に反射して、ゆらゆら揺れる陽炎を生む。正しく「夏」という言葉に相応しい情景である。
 しかしながら、脳というのは意外と丈夫にできているらしい。心が傷付いていても相変わらず蝉たちの合唱は耳に痛いし、死にたくなる程の猛暑によって、汗は滝のように溢れ出てくる。本当に、暑さで野垂れ死んでしまいそうだ。早く家で涼みたいと思ったけれど、それでもわたしは考えることを止められなかった。

「…………」

 人にとって恋愛は自由、つまり責任が伴う行為の一つである。ということは、わたしは彼を愛したことに対して責任を負わなければならない。
 彼が他の誰かに恋してしまったということは、わたしが彼に対して無責任なことをしてしまったということに繋がるのが普通だ。けれどもわたしは、意識上でも無意識下でも、無責任なことをした覚えがない。それは、彼のわたしへの態度を根拠に、胸を張って言い切れる。
 では、何故に彼は柊アリスに恋をし、行動まで急変してしまったのか。原因として思い当たるのは、やはり彼女だった。彼女との握手会で、彼の身に何かが起こったに違いない。
 わたしは彼女、柊アリスのことを知らなければならない。知る責任が、わたしにはある。そして、わたしは必ず、彼との別れを受け入れるのだ。





 高校時代からの付き合いだった彼と別れ、悲しむ間もなく新たな決意を胸に刻んだあの日。それから時を待たずして、チャンスは到来した。
 東京都渋谷区にある観光名所、スクランブル交差点。車や人のごった返す、「都会」と言えば誰かしら連想するであろうその場所は、車の排気ガスやら人の熱気やらでもう訳が分からない程熱されてしまっていた。それなのに、信号が青になれば人波が起こるというのだから、ここにいる人々は中々に勇気があるのだろう。わたしなんて、折角ここまで足を運んだはいいものの、熱気に思考を奪われて、足が竦んでしまうのだ。
 幸いなことに、この近くには街の人からブチ公と愛称されていることで有名な待ち合わせスポットがある。お陰で道端で立ち止まっていても怪しまれずに済んでいるけれど、そろそろこの鈍足を動かさないと、訪れた好機をみすみす逃してしまうことになるだろう。それだけは絶対に避けたい。だって、わたしは彼に振られた原因を知りたいのだから。
 茹だるような暑さにすっかり頭が茹で上がってしまったけれど、彼に振られたあの日と似たような状況と、彼の贈ってくれた白銀のワンピースが、少しだけ熱を奪ってくれた。
 そうして決意を込めた瞳で力強く見据えたのは、真っ昼間の日差しを受け神々しいまでに輝く「渋谷705」――ではなく、その前にある特設ステージだ。といっても人混みでよく見えないけれど。ただ、両サイドに彩り豊かなハートバルーンがもりもり浮かんでいるのだけは認められた。それだけで、遠目からでも興味関心を惹くというものだ。わたしはこれからあそこに赴いて、あの派手な舞台に立つ彼女と相見えるのである。
 逸る緊張と興奮を抑え、わたしは一歩を踏み出した。未だ雑多な人混みと何度もすれ違う、熱帯の交差点へ。





 意外なことに、特設ステージにはそこまで人が集まっていなかった。しかも集まっていた人たちの殆どが女性という、何とも奇妙な光景に、わたしは一瞬くらりと目眩を覚えた。もしかして彼女たちは、わたしと同じ境遇にいるのだろうか。彼に振られ、その原因を探るためにここに来たのだろうか。それともただのファンなのか。分からない。何にしても、きちんと彼女の公式サイトでイベント開催の告知がなされていたというのに、デビューライブ時と比べれば雲泥の差というべき人だかりの小ささに、わたしは拍子抜けせざるを得なかった。けれども夏の暑さで我に返り、わたしは大人しく彼女たちの後ろに並ぶ。

  


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