ときを廻れば

序章 変わりゆく

 壮大で、切なくて、ただただ愛に溢れた家族の話。わたしが聞いていたのは、正に父と母の愛の込もった声だった。本当に、聞いたこともない――訳ではないのだろうが――母の優しくて柔らかい声が聞こえた気がした。
 気付けばわたしは無意識にボロボロと涙を流していた。父と母の愛を強く胸に抱き締めていた。

「お父さん、お母さん、ありがとう。わたしを救ってくれて、本当に……本当にありがとう」

 仮面を剥がしたちっぽけなわたしが、愛を、感謝を、わたしを愛してくれる人に。わたしは漸く真実を言葉に紡ぐことができた。
 心がまっさらに、真っ白に浄化されていく。本当の愛で満たされていく。全身をじんわりと喜びに染め、わたしは笑った。きっと自分でもはっきりと分かるくらいに眩しく、美しく。父も泣いているのか笑っているのか分からないけれど、ただわたしの愛を穏やかに受け止めてくれていた。

「ああ。俺とメールにとって、トーネが笑って生きてくれる以上に幸せなことはない」
「メール……それって、お母さんの名前?」

 父はこれまでにない程優しく、柔らかく微笑みながら頷いた。

「そっか。メール、わたしのお母さん……ふふっ、何か、くすぐったいや」

 母がすぐそばでわたしに寄り添ってくれているような気がして、心がポカポカと温まる。これが愛なのだ。
 わたしも二人の愛に応えようと、まだ愛情に不慣れであるから少し気恥ずかしいけれど、愛を込めて真っ直ぐに伝えた。

「わたしね、お父さんとお母さんの娘でいられて……とっても、嬉しい、よ」

 今だって当然のように恥ずかしいけれど、それよりもわたしの心の内を占めるのは家族への愛情と感謝、そして父と母の娘である誇りと幸せだ。父はわたしの愛をたっぷりと心に受け取ると、それを全て放つ勢いで、運転席と後部座席などという脆い壁はあっさりと飛び越えて、わたしを強く抱き締めてくれた。

「ありがとう。愛娘からこんなに嬉しいことを聞けるなら、俺も生贄になって良かったと思える……確かにお前は正しかったよ、メール」
「お父さん……」

 喜びでいっぱいだった胸が突然の如く苦しくなって、わたしは父の体に両腕を回してしがみついた。父がわたしから離れないように、わたしが父から離れないように。わたしはどうやらまだ甘えたがりな幼い女の子だったらしい。
 縋るわたしの背中を、父は優しくポンポンと叩いた。

「トーネ、大丈夫だ。俺とメールはいつだってお前のそばにいる」
「……本当に?」

 泣きそうな目で父を見つめると、父は困ったように笑い、またわたしの背中をポンポンと叩いた。

「ああ、本当だ。それに、俺の話を思い返してみろ。本来なら、俺はあの魔法を放ったらすぐに消える筈だったんだ」

 そう言われて思い出すのは、父が解読して得た禁術の知識のこと。「魔法を使用する場合、使用者は自身を生贄として消滅させなければならない」、「この魔法には名称がないため、使用する場合、魔法を受ける者の名を叫ぶ」。確かに使用後に異世界に飛ばされるとは言われていない。わたしは不思議に思って首を傾げた。

「……何で、わたしたちは此処にいるんだろう?」

 父は既に答えを知っているようで、少し得意気に「それはな」と言って続けた。

「神様が俺たちの愛を感じて、僅かながらも幸せな時間を与えてくれたからだ」

 父に似合わないキザな台詞に、わたしは泣きそうになっていたことなんて忘れて、くすっと笑った。でも不思議とそう思えるのは、やはり父娘の愛故なのだろうか。

「……うん。きっとそうだね」

 わたしと父はもう一度目を合わせてくすりと微笑んだ。
 それからどれくらいの間、わたしたちは抱き合っていたのだろう。たったの五分程だったような気もすれば、一時間程度経ったような気もする。いつの間にか洗車も終わっていて、車窓には汚れ一つ残っていなかった。しかし、いつもならば洗浄音が煩過ぎて嫌でも気が付いてしまうのに、今回全く気付かなかったのは何故だろう。
 まあ、いい。とにかく今は父と愛を分かち合っていたい――もうすぐ訪れる、別離の時まで。

「トーネ」

 突然、父がわたしの名前を呼んだ。その声がいやに真剣だったから、わたしも神妙な面持ちで父に応える。

「はい、お父さん」

 何をするのかと内心でワクワクしながら、わたしは父と、まるでシンクロしているように息ぴったりに、互いに体を離して見つめ合った。
 父は強張った顔を途端にゆるゆると緩ませると、静かに口を開いた。

「俺とメールはお前のことを誰よりも愛している」

 この、心に直に響く父の言葉が堪らなく嬉しくて、わたしは満面の笑みを浮かべてこう言い返した。

「わたしも、お父さんとお母さんを二人の五倍、ううん、千倍は愛してるよ」

 父も、もうこれ以上は笑えないだろうと思わせる完璧な笑顔を浮かべて、静かに「ありがとう」と言った。
 こうしてわたしたちは再びギュッと抱き締め合った。互いが互いから離れないように。しかし無情にも時はやってくるのだ。

「……そろそろだ」
「……うん」

 やはりわたしたちも父娘なのだ、二人して互いを抱き締める力を強めては離れまいと、流れゆく時に抗う。幼いし、拙い。けれど優しく、温かく、素直な心。ああ、これがわたしたちの愛の形なのかもしれない。
――だから最後には必ず、この言葉を言おうと思うんだ。

「ねえ、お父さん」
「ああ、そうだな」

 呼び掛けると、父は得意気に頷いた。どうやら父も同じことを考えていたらしい。それが何よりも嬉しくて、わたしはニコニコと笑った。父も笑った。ああ、これが最後の笑い合いだ。もう会えないかもしれない。寂しい。悲しい。けれども――。

「わたしは笑って生きていきます。そうすれば、きっとまた会えるよね」
「ああ。俺とメール、二人でお前に会いに行くさ」
「ふふっ、うん! あ、でももしかしたら待ち切れなくてわたしから会いに行っちゃうかも。幽霊じゃなくて、ちゃんと実体でね」
「はは、そうだな。なら、二人で待ってる」
「うん。待っててね」

 ああ、幸せだ。なんという幸せだろう。わたしは笑った。父も笑った。

「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」

 いつかまた、会える日を信じて。

仮面を剥いで、先の旅路へ




読んだ帰りにちょいったー

戻る   玄関へ