あなたが星に願うとき

第一章 あなたが誰かは関係ない

それから一体どれくらいの時間が経ったのか。そろそろ五時間目も始まろうとする頃だというのに、涙は頑なに止まってくれなかった。何故、ここまで竜司先輩に共感するのか、鴨志田先生に嫌悪感を抱くのか、よく分からない。理由が分かったとて、この涙はきっと止まってくれやしないだろう。
 やはり、涙は止まらなかった。ひっくひっくと喉がしゃくれて上手く呼吸ができないし、制服の袖も段々と濡れていく。多分、出会ったばかりの女子生徒が目の前で号泣するというのは、竜司先輩しかできない体験だろうなんて、若干の上から目線の冗談も口には出せなかった。迷惑をかけてしまった罪悪感や、竜司先輩の過去の如何に惜しいことか。色々なものが心の中で交錯して、わたしは訳も分からず、ただ泣いた。
 ふと、竜司先輩が近くにいるような気がした。いや、それは当然なのだけれど、そうではなくて、そばに居るような気がしたのだ。

「竜司、先輩……?」

 最早自らの泣き顔なんて考慮の内に入っていなかった。ただ竜司先輩の様子が気になって、わたしは腕を下ろし、後ろを振り返った。
 刹那。
 わたしは竜司先輩に抱き締められた。まるでタックルでもされたかのような衝撃が、わたしにその事実を訴えてくる。けれどもよく分からなかった。わたしには、分からなかった。
 尚も涙は出てくる。竜司先輩の温かさだけは感じ取れたのだ。けれど、それがまた彼の辛さを物語っているようにも思えて、わたしは更に涙を流した。
 もうわたしに恥じらいなどなかった。わたしは竜司先輩の背中にしがみつき、彼の胸に顔を埋めてわんわんと泣いた。彼も彼でわたしを更に強く抱き締めてきた。わたしたちの間には、少しだけ同じ感情があった。そしてそのとき、わたしは彼の心の奥底から何かの囁きを聴いた。
 それは低く、心の奥を抉るような、特別な力を持った声だった。到底、竜司先輩には発せられない声だと思った。しかし声音は彼本来のものと一致するところが多々あった。耳に入りやすいのも、少ししゃくれたような感じが入るのも彼の声の特徴であり、特別な声の特質であった。結局、今のは一体、何処から聞こえたのか。
 わたしは声の出処を探そうとした。そこでわたしはハッとする。そうだ、今、わたしは竜司先輩と――。
 恥ずかしさがどんどんわたしの頬を真っ赤に染めていく。心臓がバクバクと煩い。彼の背に回してしまった手が小刻みに震え始めた。これは、これはわたしの心が危ない。

「あ、あ、ああの、竜司、先輩」

 わたしの体から離れてもらうべく竜司先輩に声をかける。けれども彼の腕はわたしを解放してくれない。何故だ。仕方なく、とんとんと背中を叩いてみた。

「竜司先輩。あの、離して――」
「へ? えっ?! うわっ、あ、え、へっ!?」

 どうやら放心状態だったらしい、我に返った竜司先輩はわたしを閉じ込めていた腕を解き、動揺の余りか、バランスを崩して尻餅をついた。けれども尻に衝撃が加わったことなど全く構う様子もなく、彼は自身の行動に対する衝撃のみに苛まれているらしい。

「わ、わわわ、悪い!」

 彼は慌てた様子でわたしから顔を逸らした。顔から耳まで林檎のように真っ赤だ。それはまあ、わたしも同じなのだけれど。
 ああ、竜司先輩は意外とピュアな男の子なのだろうなあ、とまるで他人事のようにこの事態を眺めるしか、わたしに青春の体験から逃避する術は最早なかった。まあ、何にしてもわたしの心臓が爆発しなくて良かった。
 竜司先輩は尚も顔を赤くして、自分でも何をしたか分からないのだろう、混乱している様子である。わたしだって勢いで何故か男の子と抱き合ってしまったのだから取り乱したい所だけれど、わたしが冷静にならなければ、この非常事態は収拾しないだろう。よし、ここでまたわたしの出番だ。

「竜司先輩、ありがとうございます。ハグしてくださったお陰でやっと泣き止みました!」

 わたしは極めて自然に笑ってみせた。こうすれば竜司先輩は多分、戸惑うだろうけれど自分の行動に納得してくれる筈だ。
 竜司先輩はこちらに顔を向けるも、予想通り困惑の色を隠し切れない――何も隠そうとはしていない――ようだった。がしかし、徐々に納得の気色を見せてくれるようになる。

「え、いや、えっと……よく分かんねえけど、そんなら、良かったのか?」
「はい、勿論ですよ」
「……へへっ、そっか。なら、良かったわ」

 竜司先輩は未だに頬を染めながら、もう一度「へへ……」とはにかんだ。
 何だか彼が少し可愛く思えてきた。それだけの無邪気さと純粋な心を、彼は兼ね備えているのかもしれない。
 兎にも角にも竜司先輩が笑ってくれて良かった。これでわたしの青春のひとときも幕を閉じられそうである。何となく腕時計で時間を確認してみると、もうすぐ五限目の授業が始まろうかという頃合いだった。

「わ、もう五時間目始まっちゃう! 先輩、いきましょう?」
「だな」

 わたしは竜司先輩にそっと手を出した。

「はい」
「さんきゅ」

 竜司先輩がわたしの手をギュッと握る。不思議と触れ合うことに抵抗はなかった。寧ろ心地良さすら感じた。
 わたしが手を後ろに引っ張れば、竜司先輩は軽々と立ち上がった。彼はわたしよりも顔一つ分は背が高い、男子高校生であった。

「じゃ、いくか」
「はい」

 互いに笑みを浮かべて、わたしと竜司先輩は屋上の出入り口に向かう。しかし、ふとわたしはあることを思い出して、それを彼に伝えるために足を止めた。

「竜司先輩」

 わたしが彼の名を呼ぶと、竜司先輩は何の疑いもない素直な表情でこちらを振り向いた。

「どうした?」

 彼の、邪な考えの一切取り払った優しい声、表情、仕草の全てがわたしの心を温かく包む。わたしは春と彼の陽気にあてられて、自分らしくない表情を彼に見せてしまった。

「わたしに手伝えることがあれば、何でも言ってくださいね」

 わたしは竜司先輩とほぼ同じ感情を鴨志田先生に対して抱いている。であれば彼の役に立ちたくなっても、何も可笑しくはないだろう。
 竜司先輩はやはりニカッと、キラキラと輝く笑みを湛えて、眩しすぎる程に明るく「おうよ! 楓のこと、頼りにしてるぜ」と言った。わたしは竜司先輩に頼ってもらえることが嬉しくて、とうに、さっき耳にしたばかりの不思議な声を脳内から消し去ってしまって、「ふふ、はい!」と力強く頷いた。

こころとこころ




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