あなたが星に願うとき

第一章 あなたが誰かは関係ない


「って、やべえ! そろそろマジで行かねえと」

 絆の美しい誕生も程々に、竜司先輩は我に返ったように焦った顔をして叫んだ。確かに今は、ここで呑気に会話を楽しんでいる場合ではない。

「ですね……走れますか?」
「おう、ちょっとくらいならいいリハビリになるだろ」

 竜司先輩はしたり顔を浮かべて「ニシシ」と笑った。本当に竜司先輩の企みは、企みではなくただの無邪気に見えてしまう。まあ、彼が余程のわんぱく少年であるということなのだろうが、それも彼のいいところだ。わたしは好き。

「ふふ、共犯ですもんね。走ったことは秘密にしておきます。じゃあ、行きましょう!」
「おうよ!」

 二人して気合を入れ、一気に駆け出す。わたしたちの陽気に釣られ、春の陽だまりもふよふよと周囲を揺らし、柔い風を起こした――心地良い風だ。太陽のように暖かく、涼風のように清々しいこの感覚は、当然の如くわたしの心に幸せを生んだ。
 竜司先輩が屋上の扉を開け放つと、キィと古臭い音が立った。わたしたちは扉が閉まるまでの僅かな間にトトトと軽快に出入り口を潜り抜け、バタン、と重量感たっぷりに出入り口を塞いだ「立ち入り禁止」の扉を背に階段を駆け下りる。たんたんたん、と階段を下りるときに小刻みに生まれるこの音が、鼓動が、わたしは堪らなく好きだ。
 そして、わたしたちは教室棟三階の廊下に辿り着いた。教室棟三階は一年生のフロアである。わたしのクラスであるA組は、ここから更に廊下を縦断した所にある。ここで、竜司先輩とは暫しの別れだ。ただ、わたしは別れを惜しむ暇もなくサッと彼の前に立ち、満面に笑顔を浮かべた。

「それじゃあ、わたしはここで。先輩、また!」

 ひょいと手を挙げると、彼も無邪気に笑って手を挙げ、応えてくれる。

「おう、またな!」

 竜司先輩は「じゃ!」と元気よく言うとわたしに背を向け、更に階段を駆け下りていった。彼は二年生だから、進級する度に階層が下がる仕組みからして、二階に下っていったのだろう――また、会いたいな。
 わたしは高校生活にとって大事なこのときに、秀尽一の不良(仮)と共犯関係を築いてしまった。しかし、それによって生まれた感情は後悔でも何でもなく、ただただ自分の人生に深みと彩りを与えてくれるスパイスのような、受け入れ得るものだった。





 三階の廊下には、残り少ない昼休みを満喫せんがために友人とお喋りをして楽しそうに笑っている生徒や、移動教室であることを失念していたのか、校則違反ながら楽しそうに友だちと廊下を駆けていく生徒、はたまた窓枠に腕を乗せ、じっと外を眺めて物思いに耽っている生徒がいた。既に殆どの人が教室に戻っているらしい。窓からは、少し水色がかった柔らかな青空に白雲がふわふわと揺蕩う、長閑な春にぴったりな景色が流れ込んでくる。それは陽光となって、ピカピカの一年生の廊下に降り注いでいた。
 わたしはこの廊下にいる三人の同級生の名前を全くもって知らない。それはつまり、わたしが彼らと面識を微塵も持っていないということである。この事実は、わたしに途轍もない安堵を与えてくれた。なぜなら、わたしが大遅刻を経て今この廊下を歩いていることを、彼らは誂うことも軽蔑することも、最早認知することすらできないからである。大遅刻が自己管理の甘さによる産物だったとしても、竜司先輩という同志がいてくれたとしても、やはり自分にとって失態となることを、自分を「新入生代表」と認識している人たちに知られたくはなかった。隠すことが、ときには人間の最弱の証になると知っておきながら。
 このようなことを、わたしは人目につくからと走らずに、歩きながら考えていた。かといって前方への注意が散漫になる程に深く考え込んでいた訳ではない。ただ、後方に対して不注意だっただけで。

「あ、楓!」

 後ろからわたしを呼ぶ、明るく可愛らしい声が聞こえた。突然のことに、わたしの体はびくっと反応してしまう。けれども声の正体を知っているわたしは、あくまでも失態を隠さんと平静を装い、笑顔満開で彼女の方を振り向いた。

「紗月! おはよう」

 実際、わたしは彼女のことが大好きだ。故に今わたしが浮かべている笑顔は、彼女に会えた喜びを完璧に表すものである。けれども笑顔の中を覗いてみれば、その端には遅刻を気にする自分が居座っている。あくまでも笑顔の中の、端っこで。そんな自分をわたしは彼女に見せる訳にはいかないし、彼女が見てしまった暁には、眉を上げて「楓でもそんなことあるんだ」と意外そうに微笑まれるだけだ――それだけは、耐えられない。

光のどこかに潜むかげ




読んだ帰りにちょいったー

戻る   玄関へ