あなたが星に願うとき

第一章 あなたが誰かは関係ない

光の傍には必ず闇が潜んでいる。両者が交わることは万が一にもないが、その相反するものによって存在することを可能にしているのも確かである。この矛盾は光と闇、どちらにとっても酷く屈辱だった。


 ・・・


 事は終わり、五限目も帰りのホームルームも終わり、学校で特にすることもなかったから、わたしは家に直帰することにした。席を立って片手を机に置き、片手で椅子を元の場所に戻す。そのままの流れで学生鞄をひょいと持ち上げて肩に提げ、わたしは教室の出入り口である扉の方へと向かった。その際、級友たちへの別れの挨拶を欠かさないのが、わたしの流儀だ。

「皆、また明日ねー!」
「お、成宮さん。気をつけてなー」
「バイバイ、楓!」

 どうやら一限目のホームルームで係決めをしたらしい、やけに仲のいい学級委員二人を筆頭に、教室に残っている級友たちがこちらを向いて、笑顔で手を振ってくれた。まあ、一部の男子は恥ずかしがりなのか、こちらをちらと見遣るだけで、すぐに視線を逸らしてしまったけれど。そんな彼らにくすりと笑って、わたしは「うん、バイバイ!」と皆に手を振り返した。
 幸せだ。この光景が、わたしには何とも堪らなく、幸せだ。心の中で彼らにありがとうと言って、わたしは扉を開け、静かに教室を出た。





 天に漂う白濁の雲が排気ガスのように思えてならないというのは、都心ならではの考え方だろうか。
 東京サブウェイ銀坐線の停車駅である蒼山一丁目駅から終点の渋谷駅までには一度、しかもほぼ一瞬だけ空を仰ぐタイミングが訪れる。そのとき空が青ければ、ああ眩しいなとなるし、曇っていれば、前述の通りだ。
 しかしまあ、文学的な思考を紡ぐことで少しは紛らわせるかと思ったが、流石は三大欲求といったところか。空腹感が酷い。死にそう。
 大遅刻且つ竜司先輩の話に夢中で、何もお腹に入れていないことに気付いたのが五限目の古典のオリエンテーションの最中、本来なら胃の内容物の消化のためにウトウトと頭が舟を漕ぎ出す時間帯だった。いつもなら睡魔が襲ってくるのに……と考えたときには、既に胃は死んでいた。それでも何とかここまで倒れそうになるのを我慢したが、もう限界だった。
 機械的な音と共に左側の扉が開いて、一斉に人が降車を始める。吊り革にだらりとぶら下がるように立っていたわたしは、彼らに半ば流されるようにホームに降り立ち、ホームのすぐ側に設置されている改札を抜け、そのまたすぐ隣にある「ヨンジェルマン」の前で漸く立ち止まった。

「いらっしゃいませ! ただいま焼き立てをご提供しておりまーす!」

 ショーケースの中には、店員さんの元気な呼び声も耳に入らなくなるほど、空腹の人間には強烈過ぎる芳醇な香りを放つパンの数々が、宝石の如く散りばめられていた。どこぞの人が「パンの宝石箱や[D:12316]!」と評価しても可笑しくない煌めかしさである。けれども最早感嘆する余裕もなかったわたしは、取り敢えず目に付いた好物を頼むことにした。

「すみません。カレーパンとロイヤルミルク、あとフルーツデニッシュを一つずつください」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 これで一件落着だ。ホッとする傍らで、店員さんはテキパキと注文の品を袋に入れ、包んでいく。その手際の良さに、わたしは漸く感動することができた。

「それでは、三点で七百八十円になります」

 店員さんから愛想良く言われて初めて、わたしは自分が財布を出していないことに気付いた。「あ、ごめんなさい」と謝罪を口にしながら、鞄から如何にも使い古したような財布を取り出して、小銭をカルトンに並べていく。その際に店員さんが「ゆっくりで大丈夫ですよ」と言ってくれたのは非常にありがたかった。これが接客業の鑑かとも思った。

「これでお願いします」
「かしこまりました。七百八十円、丁度頂きます。それでは……丁度頂きましたので、お先にレシートのお返しになります」

 ほんわかと穏やかな空気の中に礼儀正しさをきちんと兼ね備える店員さんからレシートを受け取ると、続いて「こちら商品になります」とヨンジェルマンのロゴの書かれたビニール袋が差し出される。洗練された一挙手一投足に、目が釘付けになってしまったが、何とか平生を保って感謝の言葉を口にし、差し出されたそれを丁寧に受け取る。そして、わたしは何とも清々しい気持ちを抱いたまま、「ヨンジェルマン」に背を向けた。

「ありがとうございます。またお越しくださいませ」

 と言う店員さんのハリのある声を耳にしながら。
 この日、わたしは連絡通路の辺りでほくほくのパンを味わいながら、わたしもあの店員さんみたいになるのだと、憧れも含む決意を抱いたのだった。そして、腹を満たして家に帰り、晩ご飯の用意を済ませたところで、珍しく揃って帰ってきた弟と両親に向かって「わたし、アルバイトしたい!」と声を大にして決意を語ったのである。

異世界へのあこがれ




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