海の見える我が家よ


――とまあ、トーネは中々に波乱万丈な幼少時代を体験し、遂にめでたく研究者となった訳だが、だからといって彼女の他人との接し方が上達した訳ではない。実際、稽古場の先生や生徒たち、家の近所の人たちとは自然体で接するようになっていたから、それはそれで進歩と言えよう。が、どうしても彼女の人見知りは直らなかった。証拠として、俺が彼女と出会ったときも彼女は異常な程に挙動不審だったし、彼女を応接室に案内している間ですらも彼女は黙りこくっていた。つまり、最初は彼女も俺に対して完璧に警戒心を抱いていたという訳だ。
 しかし、それが今はそうでもないのである。そう、俺に対する彼女の警戒心が解かれたのだ。「俺が彼女の核を形成する一人になれた」紛れもない事実である――これが俺の言いたいことだった。俺のしつこいアタックが功を奏したと思いたいが、この際、それもこれも全てレギス様やノクトの粋な計らいのお陰と言っても過言ではなかった。
 ノクトとルナフレーナ様の婚姻が為にノクト、グラディオ、プロンプト、俺の四人がオルティシエへ旅立つことは、王城に足を踏み入れたことのある者ならば誰もが知っていた。となれば無論、彼女も知っていただろう。それを利用しようと画策した(具体的に説明すると、人は男女問わず「距離を置いたときに互いの大切さに気付く」という説があるらしく――因みに、如何せん俺は恋愛関連の本が苦手だから、これはプロンプトの入れ知恵だ――、「暫く会えない」などと言い残して少しの間だけ距離を置けば彼女も俺のことを意識してくれるのではないか、と如何にも健気な男子の想像しそうなことを企んだ)俺だったが、謀は我らが主とその父によって見事に粉々に砕かれてしまった――良い意味で。
 ノクトの出立に伴い、俺を含む同行人らは何度か作戦会議のようなものを開いたのだが、何故か、其処に彼女がいたのである。最初は「何故、彼女を旅に連れていくのか? 仮に行かないとしても何故ここにいるのか?」と疑問に思った。しかし結局は「俺は彼女と旅ができるのか」という若干に邪な考えに至り、終結する。
 取り敢えず、此処で最初の疑いを晴らすとすれば、もうこれは全てルシス王家による図りだった。それ以外に述べることがない。
 彼らは何故そうまでして俺の恋路に寄り添ってくれるのだろうか、と感動を覚えもしたが、いや、でもそうだった。俺が当時二十歳にして初めて誰かに恋心を抱いたのであれば、当然のように皆から「いけいけ押せ押せ!」なオーラを押し付けられるだろう。
 こうしてノクト、グラディオ、プロンプト、俺、そしてトーネの五人衆は短い――距離としてはかなり長い――旅路についた訳だが、しかしながら、旅というものはやはり想定外の出来事が起こり得るのだと、俺たちは実感せざるを得なかった。





 ざざん、ざざん、と遠くから穏やかな波音が耳に寄っては引いていく。稀に、その間隙に鴎の鳴き声が元気よく響いた。まるで先程の大雨が嘘だったかのように空は青く、海もまた青い。全てが静寂に身を委ねているようだ。
 先程――トーネが(言葉は悪いが)入水自殺未遂をする前――からこの天気であれば、と自然の気まぐれに俺は憎まれ口を叩きたくもなったが、しかしこの状況が巡り巡ってやってきたということに関しては、彼女に恋心を抱く俺からすると幸運のように思えた。しかし、そう思うと同時に、人の不幸を自らの幸福に変えようとしている自分に後ろめたさも感じた。

「……トーネ」

 何だか途端に不安に駆られて、俺は思わず彼女の名前を呟く。けれども返事が聞こえることはなかった。
 彼女は今、キャンプ好きのグラディオからキャンプ用に貰った寝袋にぐるりと包まれながら眠りに就いている。その表情は酷く落ち着いていて、俺は逆にずっと落ち着かなかった。看病をするという目的があるとはいえ、異性と、しかもそれが好いている女性と二人きりなのだ。それはもう、たとえ道徳を守る俺でも当惑させられる。
 けれども最優先事項が彼女の看病であることは間違いなかった。これは看病だ、これは看病なのだ、と自分自身に唱えつつ、俺は片手で彼女の額に載せていた濡れタオルを持ち上げ、もう片手で乾いたタオルを彼女の額辺りに優しく宛てる。そうして汗や水を可能な限り拭き取った後、俺は少し湿ったタオルを水桶の横に置き、空いた手で彼女の額にそっと、丁寧に触れた。じんわりと温かい。
 やはり幼い頃から体を鍛えていただけはある、彼女の体は数時間前まで確かに冷え切り、先程まで微熱を発していたのだが、もう平常体温を取り戻そうとしていた。これも魔女の特性なのだろうかと思いもしたが、きっとこの体内の温度調節の上手さだって彼女の努力の賜物だろう、と結局は思い至った。
 非常に名残惜しかったが、俺はいよいよ彼女の額から手を離し、空いた所に濡れタオルを広げて載せた。彼女の寝顔は先程よりも酷く落ち着かないものになっていて、俺は逆に漸く落ち着けた気がした。
――それよりも。
 俺は初め、彼女の看病をしようとは思っていなかった。いや、したいとは思ったが、私情など挟まずノクトの側付きとして「トーネの看病はホテルのスタッフに頼んで、すぐにでも王都の現状を確かめに行こう」と判断し、そう述べたのだ。しかし何故かそれを、俺たちの中でも一番に王都の様子を心配しているであろうノクトが「それは後でもいい。イグニスは先にソイツの看病してやれよ」と言って断ったのである。これには俺もグラディオもプロンプトも驚かざるを得なかった。
――まさか、ノクトも?
 と、俺は内心で冷や冷やしたが、しかし、そういう訳ではなかった。そもそも落ち着いて考えてみれば、そうではないとすぐに分かる。
 ノクトは死に敏感な男だ。王都の状態に関しても嫌な予感しかしないのは確かだが、ノクトはそれよりも目の前の仲間の命を、一人の人の命を救おうと思う男なのだ。それを考慮すると、この発言は妥当なものなのだと知ることができた。
 まあ、何にしてもトーネには早く目を覚まして貰わなければ。皆も待っているからな。ぼうっとそう思いつつ、俺は未だに収まることのない波音を聴きながら、この場所の大切さに――まあ、彼女と二人きりだという大きな要因もあるが――今更ながら気付くのであった。

  



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