こうして魔女と軍師は
・・・
おでこに当たるひんやりとした感覚が気持ちいい。それに、何かに優しく包まれているような、静かな温かさを感じる。ああ、私は生きているのかなあ、なんて、嬉しいのか悲しいのか不確かで、どっちつかずな気持ちを抱きながら、私はゆっくりと目を開いた。
明かりの点いていない、透き通った硝子のランプ。遠くから聞こえるざざん、ざざん、と波の揺らぐ音。塩っぽいような、それでいて温かいような、何となく懐かしい香り――どうやら此処はガーディナ渡船場近くの標に立てられたテントの中らしい。
まだ額にはひんやりとした感覚が、体には静かな温かさが残っていて、手を使って色々と触れてみると、それらの正体が丸っきり、濡れタオルと、グラディオから貰った深緑色の寝袋だったものだから、私は笑ってしまった。ああ、やっぱりこんな私をイグニスが助けてくれたのだ。珍しく感謝の念が沸々と湧いてきて、私は堪らず彼の名前を呼ぶ。
「……イグニス」
しかし肝心の本人は今、此処にはいないらしい。ただ、私の左隣に、使われた形跡のある桶と乾いたタオルが置かれているから、誰かがわざわざ私の看病をしてくれたことは確かだ。そしてその誰かがほぼほぼもう分かり切っているのも確かだった。
ふと、私はいつの間にか自身から恐怖心がすっかり消え去っていることに気付く――今までずっと支えてきてくれた人々がいなくなる怖さ、独りになることへの恐れ。あのときは、まだそうと決まった訳ではないと脳内では理解できても、今までの経験や思い出が簡単には楽観的に思考をさせてくれなかった。だけれども、さっきから私は生きていることに笑ったり感謝したりと、ポジティブに物事を捉えられている。
何故だろう。何故、私は悲観的から楽観的に、思考回路を真逆に変えられてしまったのだろう。この疑問の解答は明確過ぎて、最早愚かしくもやさしくもあった。
――皆、全部、イグニスのおかげ。
出会ったときからずっと、私が極度の人見知りだと判っても尚、私に寄り添い続けてくれた人といえば家族と店長、そして唯一といっていい友人であるイグニスだけだったのだ。私はこの四人がいなければ生きていけないな、と若干の依存心を抱きつつも、何気にイグニスという一人の人が私の心の内でどっかりと居座っていることにハッとした。
刹那、シャッと卒なく丁寧に開けられた出入口のチャック。反射でそちらに顔を向ければ、無性に懐かしい人の姿が――。
「イグニス」
「……トーネ? 目を、覚ました……のか?」
目を細める程の入射光のせいでその表情は全く知り得ないけれど、でも、イグニスが目を真ん丸に見開いて、今のは幻聴だったのかもしれないだなんて思いながら此方を尋ねていることは心の目で鮮明に見えた。
しかしまあ、ただ単に「うん」と頷けば良いのに、何故だか凄く照れ臭くて、けれどもイグニスが研究の合間によく作ってくれた特製粥の香りがしたから、私はこれを以て彼への返答とした。
「……イグニスのお粥、食べたいな」
何となく、イグニスと私は一緒のような気がした。
・・・
「やっぱりイグニスの作った料理は美味しいね」
「そうか……ほら」
「あー……ん。やっぱり美味しい」
トーネが目覚めてからというもの、俺は何故か彼女にお粥を食べさせる役目まで果たすことになってしまっていた。白い丸皿で熱々と湯気を立てるお粥を掬い、彼女の口までそっと運ぶ。そしてそれを彼女がぱくりと食べる。この繰り返しである。
正直に言って、俺は彼女への甘さ加減に呆れていた。何故なら、俺が彼女に食べさせるというのは「トーネの看病をしてやれ」とノクトから指示されてこそ出来ること――寧ろそれがなければただの下心丸出しなサービス――だからだ。勿論、喜びは俺の心の中ではしゃぎ回っているのだが、如何せん慣れない。何せ、俺からアプローチすることは多々あっても、彼女からは全くと言っていい程なかったのだ。それこそこんな風に、こんな――甘えてくることなんて。
もしかして俺は彼女に、彼女の家族と同等にまで心を開いてもらえたのだろうか。いや、もしかしたら、それ以上――俺と同じ気持ちに、とか。
「……イグニス?」
「……あ、いや、何でもない」
過ぎた考えのせいで無意識に硬直してしまっていたらしい。まだまだお粥は残っている。再び掬って彼女の口に近付けると、彼女も再び「あー」と口を開いてぱくりと食べた。少量であってももぐもぐと咀嚼する彼女を眺めていると、やはり心の奥底から愛しさが込み上げてくる。が、同時に哀しみも生まれた。彼女は普通の女性であるにも関わらず「魔女」という重い肩書きを背負い、しかも最も大切な人たちを亡くしてしまったかもしれない恐怖心と闘っているのだ。何とか助けてやりたいと思うのに、俺には肝心の強さが足りない。彼女の重荷を軽くし、共に恐怖に立ち向かえるまでの強さが。単純に悔しいし、歯痒い。だからこそ俺はこの旅で少しでも成長したいと思っているのだ。
「ねえ、イグニス」
「何だ?」
名を呼ばれて(いつの間にか俯いていた)顔を上げると、トーネの如何にも暇そうな様子が目に入った。ああ、俺はまた考え込んでしまったのか。
「すまない」
俺はスプーンで素早く粥を掬い、せめてものお詫びとして彼女に差し出した。けれども彼女は首を横に振り、お腹をポンポンと叩いた。どうやらもう満腹らしい。だとすると、彼女が俺の名前を呼んだ理由は何なのだろう。思い当たる節はあまりない。そう、あまり。一つはある。
「あの……自殺しようとして、本当にごめんなさい。迷惑かけて……ごめんなさい」
彼女は元から小さい体を更に縮こまらせてぶつぶつと呟いた。
内容は俺の予想通りだった。しかし彼女が寝袋から足を出して三角座りをして膝を抱えて顔を埋めてしくしく泣く、とまでは予測できなかったから、俺はどう対応すればよいのか分からなくてどきまぎする。だが、結局のところ俺の口をついて出たのはかなり素直で、しかし格好をつけた言葉だった。
「……トーネ、俺はトーネが生きてくれていたら、それでいい。きっとノクト達だってそう思ってる」
言った後で、急に自分の発言が恥ずかしく思えてきて、俺はやはりどきまぎした。しかしながら、そんな俺とは対照的に彼女は酷く落ち着いた表情で何かを悟ったように「……やっぱり」と声を出した。
「何がだ?」
彼女の透き通った声に俺は平静を取り戻したが、しかしまたもや俺は彼女の魔法に冷静さを欠くこととなる。
「あのね、私……イグニスが、とっても大切、みたい」
彼女は魔女だ。俺に恋の魔法をかけてくれる、唯一の女性だ。