珈琲の馥郁
序章 Morningと珈琲と美味しいと
ちゅんちゅん、という雀の可愛らしい鳴き声と、カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めるというのは、きっと誰もが一度は想像したことのある光景だろう。そして、それを曇りや雨でない限り毎朝味わえてしまう私は恐らく贅沢な人間なのだとも思う。
例の如く今朝も小鳥の囀りと柔らかなる日差しによって意識を取り戻した私は、ゆっくりと上体を起こしてふかふかのベッドから降り、明かりの漏れる窓の元へ向かった。そして、素材感溢れる麻のカーテンの端と端を優しく握り、さあっと音を立てて開く。すると突如として両眼に飛び込んでくる、太陽光という名の刺激。堪らずちらと顔を背けたが、そのままゆっくりと両目を光に慣らしていき、私は漸く今朝の街の様子を目にした。
両開き窓の向こうには、いつも通り閑静な住宅街が広がっている。静かさの如何を表すなら、木々を凝視しない限りは静止画のようにも見えるほど、といったところだ。ただ、これはあくまでも日常の出来事故に、安心こそすれ、感動することは最早なかった。
しかし今朝は特別だった。静まり返る街の上で、透き通るまでの瑞々しい青が、天を満たそうとしていたのだ。その余りの透明感に、私は思わず感嘆した。
何故、今日はこんなにも澄んで見えるのか。何とも言えない高揚感の正体を、窓越しではなくどうしてもこの目で確かめたいと思い、私は両窓の取っ手を掴んで奥へ軽く押す。すると自然に窓は開き、刹那、涼風が私の髪の毛を靡かせ、朝の匂いが鼻孔を擽った。ああ……この水のような森のような、はたまた空のようにも感じられる自然の香りを、私は心から愛していたのだった。
窓を開けた本来の目的を忘れ、ただただ空気に夢中になっていると突然、コンコンコンと扉を三度、誰かがノックした。その音に私はハッと我に返り、来客――といっても彼しかいないのだが――を迎えるために急いで身なりを整える。そして、気を取り直して「どうぞ」と声を掛けると、扉は待ちに待ったかのように、けれども優しく開かれた。
「失礼するよ」
何度耳にしても心地良い、優しい大人の声を発しながら、その人は私の自室へと足を踏み入れる。長身痩躯を上下共に黒で纏っていて、浅葱鼠の髪を腰下まで伸ばしているというのに怖くなく、寧ろ色気すら漂わせている彼は、間違いなく医師兼元「The Dirty Dawg」メンバーという異色の経歴を持つ神宮寺寂雷先生その人だった。
「先生、おはようございます」
「おはよう、聖澄さん」
私が笑顔で挨拶すると、先生も穏やかに微笑みながら挨拶を返してくれた。そのまま私がいる窓の元に近付いてきて、私が開けっ放しにしていた窓の先へ目を遣る。そしてまた私に視線を戻して「今日も良い天気だね」と優しく語りかけてきてくれた。嬉しくて、私も「そうですね」と微笑む。
「あ、でも今日は特に空気が澄んでいて……いい匂いもするんですよ」
言いながら、私はすうっと鼻で空気を吸い込む。すると、未だに清々しい朝の匂いが気道まで入り込んできて、私はまた幸せな気分になった。
しかし先生には思い当たる節がないようで、きょとんとした顔つきで「いい匂い?」と首を傾げていた。それが失礼ながらも可愛いと思って私はくす、と笑みを零す。そして再び、澄み渡るあの青を見つめた。
「朝の匂いです。清らかで、優しくて……」
話の途中で、私は匂いを確かめるように目を伏せる。
どう表現すれば、先生に朝の匂いを分かってもらえるか。十分に考えた結果として思い浮かんだ言葉を、私は目を開け、先生に微笑みを向けながら紡いだ。
「この匂いが、私、大好きなんです」
先生は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに手を顎に添えて考えるような仕草を取った。そして得心がいったように一つ頷くと「なるほど、よく分かったよ」と理解を示してくれた。私はホッと胸を撫で下ろす。
「……非常に興味深い」
「え?」
先生の優しい、しかし常のものとは異なる、かといって形容するには難しい声音を耳にして、私は不思議に思いながら彼の目を見つめる。するとその目が、変わらず私を見つめているけれど、先ほどの落ち着いた眼差しとは打って変わり、言葉通り興味ありげに瞳を輝かせているのに気付いた。次は私がきょとんと首を傾げる番だった。
「何か面白かったですか?」
「いや……君のその感性の豊かさは、一体どこで養われたのかと思ってね」
先生は未だ考える素振りをしながらも、どこか楽しそうに話してくれた。
しかしなるほど、先生は私の感性を養ったものに興味を抱いたらしい。彼の疑問を解決するために、再び私は思考を巡らす。
「うーん……本、ですかね。あ、あとは先生」
「私?」先生は目を見開いた。
「はい。私は先生の姿を見て、今までずっと育ってきましたから」
自信満々に述べた解答は、再び先生を驚かせてしまった。