珈琲の馥郁

序章 Morningと珈琲と美味しいと

先生は嬉しいような困ったような、複雑な表情を浮かべ、私と目線を合わせるために少し屈んで、私の頭を優しく撫でる。そして、まるで幼子を諭すように言った。

「君からその言葉をもらえて何よりも嬉しい、と言いたいところだが……生憎、私は君の感性を養えるような、大層な人間ではないよ」
「え……」

 私は、まさか先生がそんな風に自虐的な発言をするとは思っていなかった。ただ、冷静に考えさえすれば「謙遜だなんて先生らしいですね」と笑って返せたはずなのだ。けれども今日の私はどうしても先生の言葉を受け入れられなかった。

「……そんな、先生がそんなこと、言わないでください!」

 私は先生に向かって思い切り怒鳴り、彼の手を頭から振り払い、かつ彼の顔をキッと睨み付けた。先生はまたもや端正な顔を純粋な驚愕の色に染める。
 その表情を見てすぐというべきか、やっとというべきか、自分がやってしまったことを脳が処理し始め、私は「あ……」と言葉にならない声を上げながら無意識に後退る。

「ご、ごめんなさい、私……」

 何とか紡いだ謝罪の言葉も、そこで止んでしまった。後退していた足も、ひたと動かなくなる。何せ私は、今まで先生に反抗したことがなかったのだ。故に今しがた自身が為した事の重大さに、胸を締め付けられてしまったのである。
 私は命の恩人に対して何という無礼を働いてしまったのだろう。先生の目を見ることもできず、かといって言葉の続きも混乱していて考えられない臆病な私は、今まさに自己嫌悪の塊に胸を押し潰されそうになっていた。

「いや、君が謝る必要はないよ。君の気持ちを考えられなかった私の落ち度だ……すまない」

 先生の謝罪の言葉を耳にして、私は咄嗟に彼の方を見る。先生は至って落ち着いた様子で、申し訳なさそうに眉を下げていた。その対応が物凄く大人に見えて、先ほどよりも開いた距離も相まって、私という人間が如何に未熟であるかを私は痛感する。しかしその鞭は案外私の頭を冷やしてくれるものだった。

「……いえ、私こそ、先生に対して失礼な態度を取ってしまって……ごめんなさい」

 深くお辞儀をして、非礼を詫びる。すると先生は今度こそ困ったように「だから、君が謝る必要はないんだ」と訴えながら近付いてきた。長身故に歩幅が大きいのだろう、聞こえた足音はたったの二回。

「ほら、顔を上げなさい」

 顎辺りに自分ではない誰かの熱を感じて、私はその熱にされるがままにゆっくりと顔を上げた。
 途端、視界のど真ん中に先生の困り顔が映る――長く整った睫毛に切れ長の双眼、そして何より、サファイアのように青く輝く瞳に自分の間抜けな顔すら認められるこの距離感。お陰で私の呼吸機能は見事に停止していた。
 そんなとき、ふと脳内に私の愛読している夢野幻太郎著『御伽の国のエリス』のあるシーンが浮かんだのだ。





――オーガンはエリスの細い首筋から唇までを舐めるように凝視め、やがてエリスの愛くるしい碧眼に熱視線を注ぐ。

「我が愛しのエリス……」

 愛おしそうに呟くと、彼はエリスの顎に右手を添え、エリスの唇めがけてゆっくりと自身のそれを近付けていった。エリスは最早されるがままである。そして――。





 その続きを思い出し、目の前の光景と照合した瞬間、私はぶわっと全身が熱を帯びるのを感じた。

「せ、せせせ、先生! うわっ」

 慌てて声を上げ、先生から離れようとしたところで、そういえば今自分がお辞儀をしていることに気付いた。けれども時既に遅し。私はバランスを崩して倒れ――なかった。代わりに見えるは黒、感じるは温もり。

「……聖澄さん、今日の君は少し様子がおかしい」

 上から降ってきた心配そうな声に、まさかと思って顔を上げると、そのまさかだった。どうやら私は今、先生に抱き留められているらしい。その事実に体の熱量は失われるどころか増すばかり。

「何か……おや、顔が赤いね」

 流石は医者といったところだろうか、先生は私の熱に気付くと、診察でもするのか、更に顔を近付けてきた。ああ、もう無理だ。これ以上息が出来ずにいたら、きっと私は息を引き取ってしまう。観念して、私は素直に思いを伝えることにした。

「あの、ち、近くて……思い出して、先生がかっこいいから、その……」

 けれども脳内の酸素濃度が余程低くなってしまっていたのか上手く文に纏めることが出来ず、伝えたいメッセージがあやふやになってしまう――え、私は今何と?
 意図せずに、しかし明らかに発したその言葉に、先生の眉がぴくりと動いたのを、私は至近距離で見てしまった。ああ、終わった。
 そう、もうこの際だから白状するが、私は近頃、先生から密かに眼福を得ていたのだ。
 しかしこれは全く以て不可抗力だ。だって、そんじょそこらの男子より美しいと断言できるような美貌と、何もかもを受け入れてくれる広い心と、とにかく全てを先生は兼ね備えているのだ。それなのに下心を抱かないなんて、寧ろおかしいと私は強く訴えたい。勿論、失礼なのは承知の上だ。

サファイアからのパラノイア




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