珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち

「えっ、東風?」

 私の存在を認め、けれども私が現れたことにびっくりしているらしい山田くんは、その目を見開いて私の名字を口にした。そんな彼に「やっぱり山田くんだ。さっきぶりだね」と笑顔で返しながら、私は彼の風采に注目する。
 山田くんは先のサッカー大好き少年(「HELLSIDE」と書かれたTシャツを着て、体操ズボンを履いていた)から、サイファーでラジカセを肩に乗せながらラップを披露していそうな青年――つばが赤い紺のキャップを被り、黒のハーフジップTシャツを身に着け、白のラインが入った青のスカジャンを羽織り、白黒のチェックシャツを腰に巻き、黒のジーンズとスニーカーを履いている――にすっかり変身してしまっていた。その横顔だけで山田くんだと判断できた私の脳に賞賛を送りたいほど、今こちらに驚愕の顔付きを向けている彼は、まるで学校での彼とは別人に成り果てている。けれども彼の、毎日のように拝む制服姿でも、稀に目撃する運動着の格好でもないその身なりには、不思議なほどに違和感を覚えなかった。彼がラップを嗜むところに立ち会ったことはないけれど、きっと彼もラッパーとしての才能を内に秘めているのだろう。

「お前、何でここに……」

 いんだよ、とまで言葉が続かないほど唖然としているのが、夕陽の沈むために彼の容貌が若干見にくくなっていても伝わってくる、表情豊かな山田くん。今日だけで彼の色取り取りな一面を知ることができて、心から私は嬉しく思った。この喜びを表すため、質問に答える前に「ふふ、山田くん今日は驚いてばっかりだね」とひとこと添えておく。

「私はちょっと買い物しに行こうとしてただけだよ。この辺りに住んでるから」

 何となくさっきよりも山田くんに対するときの緊張が和らいでいるように感じながら、私は右肩に提げている買い物袋をアピールしたりジェスチャーを取ったりして彼の疑問に答えた。すると彼も、未だに狼狽えてはいるけれど「そ、そっか。東風ってシンジュクに住んでたんだな」と少しばかり表情を柔らかくして相槌を打ってくれた。

「うん、そうなの。山田くんはどうしてここに?」
「……それは……えっと」

 当然の流れで尋ねたのだけれど、山田くんからしたら返答するには少々都合が悪いものだったのか、彼は両眼を魚のように泳がせながら言い淀んだ。そんな彼を目の当たりにして、社交辞令程度だった興味が一気に「一郎さんがディビジョン・ラップ・バトルに出場するか知りたいと思っていたあのとき」程度まで膨らんでしまったけれど、返事に困っている相手に受け答えを強いる真似など私には到底できないから、「あ、言いにくいことなら言わなくていいよ。ちょっと気になっただけだから」と自身の発言にフォローを入れる。しかし、私の配慮は思わぬ形で水泡に帰した。

「いや、さっき何でも聞いてくれって言ったからには答えねーと筋が通らねえ」
「え……」

 確かに、山田くんが人情の厚い人であることも、彼のその人間味がクラスの人気者たる所以であることも理解してはいた。ただ、まさかこんなにも筋を通す人とは想像していなかったのだ。思わず面食らっていると、私の考えが伝わったのか、彼は私に目を据え、力強い声色で以て「俺、言ったことは絶対ぜってえ曲げねーって決めてんだ」と、彼の義理堅さの根拠を教えてくれた。
 清々しいまでに意志を貫こうとする彼の姿勢こそが、山田二郎という人を形成する一番の要素なのかもしれない。彼の言動をそんな風に解釈しつつ、「そうだったんだ。何か山田くんらしいね」と笑う。すると山田くんは「俺らしい、か。そんなこと考えたこともなかったな」と呟いた。かと思えば、わたしに口を挟む隙も与えず、山田くんは誇らしげに続ける。

「俺はただ一兄の真似をしてるだけだからさ」
「……一兄って、一郎さんのこと?」

 いきなり聞き慣れない単語が出てきたため、推測に少し手間取ってしまったが、何とか導き出した仮説の真偽を山田くんに確認する。

「そうだけど……お前、一兄と知り合いだったのかよ」

 呆気にとられたように、どこか先刻よりも声音を強張らせて、山田くんはリアクションを返してきた。おかげで、私の推定の正しいことが明らかになったはいいけれど、また彼にとって差し支えのあるところに触れてしまったのではないかと不安になる。焦って私は弁解に走った。

「あ、ううん。私が一方的に知ってるだけだよ。先生から話を聞いてて」
「先生って?」山田くんは首を傾げた。
「……えっと、神宮寺寂雷先生だよ」

 少しばかり遠慮気味に先生の名を声に出すと、山田くんは純粋な驚きを混ぜた声調で「……まじか。東風ってあの人と知り合いなのか。でも何でだ?」と、独白するように反応を返してきた。
 無論、こうなることは予想できていたのだけれど、実際にこうなってしまうと、やっぱり憂鬱な気分になる。何故なら昔、先生と一緒に暮らしていることを告げた相手から、嫌がらせを受けた経験があるからだ。ただ、山田くんがそんなねちっこいことをする人でないことは理解している。だから、まだ少し憂いが心に溜まってはいたけれど、私は意を決して口を開いたのだ。

「……あの、実は私、先生の家に居候させてもらってるんだ。小さい頃にちょっと色々あって……それで、拾ってもらったの」

 多分、私が苦笑いを浮かべている裏側を察してくれたのだろう、山田くんは「……なるほど、そっか。東風、教えてくれてサンキュ」と、いつの間にか薄暗くなっていた辺りを照らす灯火のように、あたたかい笑みを湛えてくれたのだった。それは紺青の深海に覆われようとしている空からしても、古傷の疼く心を宥めようとしている私からしても、やはり温もりを感じるものだった。

違いを言って互いを知って

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