珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち

金曜日の放課後は私にとって、他のどの曜日の放課後よりも重要な時間帯である。それは何故か――「かねだや」特製のきゅうりの浅漬けが安売りされる日。
 私が普段、青果類の調達のために利用している「かねだや」は、シンジュク・ディビジョンがまだ新宿区と呼ばれていた頃、それもかなり昔から営業を続けている歴史あるお店だそうだ。行けば必ず、店主のお爺さん――金田さん――が「おお聖澄ちゃん、いらっしゃい」と快活な笑顔で迎えてくれ、会計時には、金田さんの奥さんのふみさんが「これは贔屓にしてくれてる聖澄ちゃんにおまけね」と、毎回お茶目な笑みを浮かべながら買い物袋に林檎を一個入れてくれる。加えて年季の入った「かねだや」の看板や、大小様々なダンボール箱が店外に雑多に配置されている様、キーボード式のレジスターをふみさんが打つ度に鳴るピッという音など、素朴でごったな感じも何となく心地良い、素敵な八百屋さんだ。
 ちなみにふみさんがいつも林檎を一つ負けてくれるのは、林檎が私の大好物だからだ。何故、蜜柑や桃などではなく林檎なのかというと、それは幼少期、父を喪ったばかりで塞ぎ込んでいた私に、先生がよく林檎ペーストを作ってくれていたためである。毎日のようにベッドに潜ってめそめそしていたけれど、先生手作りの林檎ペーストが余りにも美味しいから、それを食べるときだけは悲しみを忘れられたものだ。加えて、きっと当時の私は手がかかって煩わしかっただろうに、先生は懲りずに私を見舞ってくれ、林檎ペーストの入った容器が空になっていれば「良かった……また作るよ」と私の頭を撫でながら微笑んでくれていたのだ。これほど先生との大切な記憶が詰まっていて、どうして林檎を大好きにならないことがあろうか。
 そして、その思い出深い林檎ペーストの元となる林檎を、先生は「かねだや」で手に入れていたという。先生に勧められて「かねだや」に通い始めた当時中学二年生の私に、ある日ふみさんが語ってくれたのだ。

――確か、五年くらい前だったかしらねえ。その日は秋なのに冬みたいに寒い日でね、お客が全然入ってなかったのよ。そんなところに先生が、「一緒に暮らしている女の子の元気がないから励ましたい」、「何か良いものはないか」ってたずねてこられてねえ。それで私たち、そのときはまだ先生のことも、聖澄ちゃんのことも知らなかったから、取り敢えず林檎はどうかってお勧めしたのよ。そのとき旬だったからね。そうしたら、先生は箱ごと買って行かれてね。そんなに元気がないのかしら、って主人と心配してたのよ。それがまさか、聖澄ちゃんだったなんて……ふふ、世の中狭いものねえ。でも、こうして元気な聖澄ちゃんが見られてよかったわ。ね、あなた。

 この日、感慨余ってお二人の前で涙を流してしまったのを、恥ずかしさ故に未だに強く覚えている。お二人も印象深かったのだろうか、以来毎度の如く、重みのある赤赤とした林檎を私に贈ってくれるのだ。
 そんな心優しいご夫婦お手製のきゅうりの浅漬けは、もう何だろうか、私は金田ご夫婦の娘になったのかもしれないと見当違いな発想をして、勝手に愛情を受け取ってしまうほどに美味しいのだ。先生も、「かねだや」のきゅうりの浅漬けが食卓に出されたときには、心なしかウキウキしているように見える。それほどまでに美味の代物を、いつも(三百円)より安い値段で購入できるのだから、楽しみにならないはずがなく。今日も今日とて夕飯作りと宿題を終わらせたご褒美に、私は外苑西通りにある「かねだや」へと向かっていた。
 ああそうだ、山田くんはというと、私の質問が彼にとってよほど衝撃的だったらしく、「な、何だって?! 俺はそんな話一言も一兄から聞いてねぇぞ! ――やべえ、三郎のヤローに先を越されるのだけは御免だ。悪ぃ東風! その話はまた分かったら教えるから! じゃあな!」と矢継ぎ早に、表情をコロコロと変えながら言うと、運動着から制服に着替えることもせず、私を置いて教室から出ていってしまったため、その後の消息は知らない。多分、一郎さんにディビジョン・ラップ・バトルに出場するのか聞きに行ったのだと思うが……何にしても、彼の様はまさに疾風迅雷だった。そして、その尋常でない速さに付いていけず、置いてけぼりを食らった私は、私と彼の様子を見守っていた級友たちと共に「何だったんだろう?」と首を傾げたのだった。
 ふと空という名のキャンバスを見上げると、そこには昼と暮と夜の三色が見事なグラデーションをつくり上げていた――ああ、私の背後にはもう、星星が紺碧にぽつぽつと煌めき始めているのか。そして私の頭上には、もう白波がざばんと音を立てながら寄せてきているのか。ならば私の手前では、もう赤赤とした林檎のようなお日様が――。

「――あれ? 山田くん?」
「あ?」

 まるで燃えんばかりの夕日を懐に隠す山のように、私の進路を阻むように街路で突っ立って、ある建物をじっと見上げているその人の横顔は、確かに山田くんのものに違いなかった。そして、その人が私の呼び声に反応してこちらに顔を向けた途端、黄玉と翠玉が閃きを放ったのを、私は見逃さなかった。

八百屋さんへとサンセット




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