珈琲の馥郁

序章 Morningと珈琲と美味しいと

先生のどこか辛そうな息遣いが耳に入ってくる。かといって私はどう行動すればいいか分からず、ただ先生の呼吸だけに耳を澄ましていた。
 相変わらず視界は真っ黒に塗り潰されている。先生の服からは普段使いの柔軟剤が香り、先生から伝わる温もりは私の体を暖め、胸をぼう、と燃やしている。先生が悲哀に沈んでいるというのに、感覚ばかりが働いてふわふわと浮ついてしまう私は、もしかしなくても不謹慎ではないか。そう思ったが、何故か私はこの状況を打破することができなかった。
 暫くして、先生は更に強く私を抱き締めてきた。その激しい力の加わり具合に、私は息が詰まりそうになる。
 何故、先生はここまで苦しんでいるのだろうか。そんな疑問が私の脳裏を過った途端、あらん限りだろう力で私の体を締め付ける先生の腕が、まるで何かに縋っているように感じ始める。私は何となく不安になって「先生……?」と彼を呼んだ。しかし返事がなく、いよいよ本気で心配した私は、勇気を振り絞って先生の顔を見ようとする。しかし先生にぐ、と頭を押さえつけられてしまったことで、結局視界が黒以外に染まることはなかった。

「今の私は、君が見ていい人間ではない」

 先生の、いつもの心地良い声音ではない酷くしわがれた音声が、私の鼓膜をぶるりと揺るがす。驚愕だか恐怖だか、そこから起こった感情の如何はよく分からなかったが、何にしても私は先生のそれを聴いて、何も身動きが取れなくなってしまった。
 私に動く気配がないのを察したか、先生の手は頭から離れた――かと思えば、それはすぐに私の背中にあてられる。
 今思えば、何故、先生は私を抱き締めるのか。よもや恋愛感情があるなんてことはないだろうし、ここまで情緒が不安定に陥っているなら、落ち着くためという理由でもなさそうだ。
 やはり私には答えを導けそうにもなかった。けれども浮かんだ疑問に関して思考を巡らせるくらいには、体が自身の置かれた状況に慣れてきていた。となれば、次に考えるのは「私が今先生に対してできることは何か」だろう。
 先生は今、何かに苛まれている。その何かを知ることは、私には到底叶わない。ただ、それでも自分にできることを、私は一つ閃いた。
 私は先生の胸元に置いていた両腕を動かし、そっと彼の背後に回す。そして少しだけ躊躇した後、意を決してその背中にぴと、と両手を添えた。そのとき、先生の体がどこか驚きに強張ったような気がした。
 先生の予想外の反応に(単に私に経験がないからなのだが)、果たして私の行動が彼にとって迷惑になってはいないかと内心びくびくする。けれども今更後には引けない。とにかく先生の不安が少しでも和らぐよう、私はなけなしの余裕を以て彼の広い背をさすった。すると先生の、レースカーテンのようにしなやかな髪が、自身の右手をさらさらと刺激してきた。それがこそばゆくて、動きがどうしてもぎこちなくなってしまう。私はここでも自分の経験の少なさを身に染みて感じさせられる破目になった。
 それから多少なりとも先生に良い影響を及ぼせたと思うがしかし、手応えがいまいちだったため、それなら言葉で安心感を与えようと私は画策した。参考にするのは、かつて私が小児科でお世話になったとき、看護師の方が唱えてくれていたあの一言。

「だ、だいじょうぶ、大丈夫、大丈夫」

 何とか緊張しながらも発した声に合わせ、思い付きでぽん、ぽん、と先生の背中を優しく叩いてみると、その動作は案外すんなりとこの手に馴染んだ。どうやら叩くのはそこそこ得意らしい。いや、人の背を叩くのに得手も不得手もないかもしれないが。
 とまあ、さするより叩いて宥めるのが得意だと分かった私は声掛けをやめ、ゆったりとしたテンポで先生の背を叩くのに集中することにした。すると奇しくも、不安を取り除く対象は先生なのに、自分の心が段々と落ち着いていくのを体感する。「他人は自分を映す鏡」とはよく聞く言説だが、この言い分を逆転させるなら、私がリラックスし始めたということは、先生も安らぎを覚えつつあるのではないだろうか。
 先生の様子を確かめようと私は一旦手を止め、先ほどよりも随分と心に余裕を持った状態で彼の胸に耳を当てた。寸刻して聞こえてきた心臓の拍動は、早くもなく遅くもない、丁度いい速さでリズムを刻んでいた。それで先生が安心しているとは断言できないが、バクバクしているよりかは安心感が伝わってきて、私はホッとする。
 直後、一切の動きを停止していた先生が、にわかに動き出した――そう、私を長らく閉じ込めていた腕を解いて私の両腕を優しく掴むと、静かに彼の身から私の体を離したのだ。
 予告なく行われた一連の流れに、私は唖然としながら先生の顔を久しぶりに眺める。先ほどまで黒の世界にいたからだろうか、朝の光に映し出された先生は、鮮やかな色彩を以てまるで生まれ変わったような様相を呈していた。
 ふと、柔軟剤の香りから離れたが故に、リビングに充満する王者の気配を嗅覚が察知した。

死んで先生、輪廻転生




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