珈琲の馥郁

序章 Morningと珈琲と美味しいと

その後、私は「自分は役立たず」という思い込みが先生への憧れの歪んだ結果だと悟った。初めは単に「私も先生と同じようにコーヒードリップができるようになりたい」という憧れだけで始まっても、中々叶わなければ悔しさやもどかしさが生まれてくるもの。それら負の感情で純粋な憧れが歪み、結果として私は自身を役立たずとみなして「先生も私を役立たずと思っているに違いない」という愚考にまで繋げてしまっていたのである。





 これは何も私に限った話ではなくて、恐らく先生が出会った人の中にも似たような経験をした人がいたはずである。そうでないと、あの日、先生があんなに寂しそうな顔をすることはなかったはずだし、今し方だって不安げな相好で私に「信じられないかな」と聞く必要はなかったはずだ。
 そして、信じられないかと聞くということは、先生の心のどこかに、信じてもらえないかもしれないという不安や、信じてもらえなくても仕方ないという諦めがあることを示していた。それが堪らなく悲しくて、私は握る手に更に力を込める。

「それで、尊敬の気持ちが逆に相手にプレッシャーを与えてしまって、心に傷を付けてしまわないものかと遠慮してしまうのは分かります。分かります、けど……私は例え先生からの敬意がプレッシャーになることがあっても、絶対に、絶対に拒んだりしません。何が何でも応えてみせます。だから」
「聖澄さん」

 突如として先生が口を開いた。私は驚きでパッと目を見開く。すると、至極穏やかな面貌の先生が目の前にいた。それを視認して、私はほっと息を吐く――ああなるほど、私はどうやら緊張状態に陥ってしまっていたらしい。
 私が落ち着くようにと、先生は私より幾分も大きい手で私の両手を包み返してくれた。そして、泣く子をあやすように穏やかな声色で、言の葉を紡ぐ。

「君の思いは十分伝わったよ。ありがとう」
「……先生」

 長身痩躯の男性には似合わない例えだろうか――私は先生にぴったりだと思うが――、春の陽だまりのような顔つきを見せる先生に、私は胸が熱くなるのを覚えた。かと思えば胸の熱容量は忽ちいっぱいいっぱいになってしまって、はみ出した熱が喉から眼にかけてせり上がってくる。それをいよいよ認識したときには、もう私は涙を流していた。
 ただ、普段はそれだけなら何とも思わないのに、先生が目の前にいるお陰で羞恥心とそれによる焦燥感が湧き起こる。堪らず私は謝ろうとした――がしかし。

「謝らなくていい」

 私の考えを先読みしたらしい先生は静かにそう言い放った。先生に考えを読まれたのは初めてで、私は泣いていることなんて忘れて「何で分かったんですか?」と問いかける。

「……何故だろう。私にも分からない」

 先生は呆気に取られたように呟いた。どうやら図らずして出てきた言葉だったらしい。先生が分からないようでは、私に理由を突き止めることなど万が一にも出来ないだろう。私は「先生にもそんなことがあるんですね」と素直な思いを口から零した。
 先生の視線は今、私たちの両手に注がれている。釣られて私も先生に包まれた自身の手を眺めると、意識を集中したせいか、急激に彼の手の温もりを知覚し出した。そういえば今、私は先生に両手をまるっと包まれているのだった。
 再び今朝のような、全身の熱で覆われる現象が私を襲う。しかも今回は鼓動まで速まっていく。先生は未だにぼうっとしているが、私はそれどころではなくなってしまっていた。

「せ、先生……」

 か細い声で先生を呼ぶ。そうすれば、先生はすうっと顔を上げ、神妙な面持ちで私の目を真っ向から見つめてきた。真顔といえばそうなのだが、様々な感情の散らばりが見て取れる真顔である。何故今先生がそのような表情を浮かべるのか、私は理由が分からなくて困惑する。

「どうかしましたか?」
「……少々手荒な真似をしますが、じっとしていてください」

 先生はいきなり口調を丁寧なものに変え、私の両手からその手を離すと、覚悟を決めたように私の腕を掴んできた。余りに突発的な行動に私は声を上げる暇もなす術もない。ぐい、と先生に腕を引っ張られると、私は思い切り先生の方へ倒れ込み、既視感のある光景を視界に映した――一面の黒。次に感じ取るは薄い布の感触と、背中に回された先生の腕からの締め付け。服から漂う柔軟剤の香りも、容赦なく私の感覚を狂わせた。
 私は最早情報整理に必死で、何かを喋らなければという意識にすら立ち行かない。えっと、私は今、確かに先生の腕の中にいて、かつ抱き締められていて……?

「……久しぶりに、君の涙を見ました」

 頭上から降ってきた、悲しげに震える声。それが先生のものであることは明らかだったが、私にはまるで知らない人のものであるように思えた。だって先生が弱音を吐いてくれるなどというのは、私にとっては滅多にないことだったからである。

握手はハグする合図




戻る   玄関へ