珈琲の馥郁

序章 Morningと珈琲と美味しいと


「流石は聖澄さんだ。とても美味しいよ」

 微笑みながら告げられた先生の評価に、私は万感こもごも到るのを覚えた。
 褒めてもらえたことへの純粋な喜び。長らく珈琲を放置していたために風味が劣化したのではないかと心配していたが故の安堵。そして、自身の欠点を隠しておきながら喜ぶ自分への罪悪感。これらをどう文に纏めればいいのか、私にはさっぱり分からなかった。故に、自身が次に繰り出す言葉が必ず本心であるとは思えなくて、私は堪らず先生から目を逸らす。

「……私、生きていて良かったです」

 ぽつりと口をついて出てきた言葉は、やはり本心のようで本心ではなかった。まるで自分ではない誰かが呟いているような気さえした。
 確かに、先生に褒めてもらえたことは私にとって何物にも代え難い最上の喜びだ。しかし先生に隠し事をしてまで得たいものではなかった。寧ろ、まやかしを土台に受け取ったそれを喜びとみなすくらいなら死んだ方がましだ、と今更後悔しているのが実際だったのだ。
 しかしそんな私の事情なんて露知らず、否、きっとお見通しだったからこそ、先生は変わらない調子で、何の恥じらいもなくこんなことを言ったのだ。

「私も君が生きていてくれて、本当に良かったと思う」

 きっと私は今、親と喧嘩してしまった後謝ろうにも謝れず、結局親から謝られてしまったときの子どもと似たような心境にいるのだろう。両親との記憶はあまりないためこれが本当にそうなのかは分からないけれど、そんな気がする。そして、そのまま心境が顔に出てしまっているような気もする。

「……先生」

 私はもう先生に視線を戻してしまっていた。どうにも私は単純というか、先生の言葉に弱いらしい。先生が私を大切に思ってくれている。そう感じただけで、どんな苦汁も美味しく、香り高いものに瞬時に変化してしまうのだ。
 今回も例に漏れず、「自分に非があることでも先生は受け入れてくれる」と脳が学習した瞬間、悩んでいることが甚だおかしく思えてしまった。これも互いに「人間」として尊敬し合っているが故なのだろうか。となれば、私はさっきの自分の宣言――先生の敬意を拒んだりしない――にまで背いて、先生からの信用を失うような真似はしたくなかった。
 先生の余裕溢れる佇まいに習って私は瞑目し、一つ深呼吸をする。すれば、どこからかいつもの自分が戻ってくるような感覚を覚えた。しかし目を開けて先生と視線を交えたときに、私は自分の中で明確な変化が起こっているのに気付く。それを以て、いつもの自分など錯覚だと私は知ったのだった。

「ありがとうございます。私、これからも先生のために頑張ります」

 清流のように透明な思いがさらさらと口から流れ出てくる。私は露ほども緊張していなかった。即ちこれらの言葉が私の完全なる本心だということだ。それだけで、先刻の悔恨の情も少しは薄れたように思う。
 先生もどこか安心したように微笑を浮かべた。けれどもすぐに、恐らく私が無理しないか心配になったのだろう、少しだけ眉尻を下げる。

「その気持ちは嬉しいが……無理はしないように」

 やはりそうだった。表情から先生の気持ちが読めるなんて珍しくて、私は思わず得意顔になってしまった。

「ふふ、はい。それじゃあ、私は朝ご飯を作ってきますね」

 私が機嫌よく告げると、先生は「ありがとう。手伝ってほしいことがあったら言いなさい」と優しい気遣いを見せてくれる。先生の慈愛に心温まった私は一言感謝を述べてから、お盆を持って遂に居間を発った。
 そこでふと、私は気付く。今の私と先生の間にあるのは、もう前のような関係ではない、と。けれども私は、その関係が一体どんなものなのか、そしてそれを認識したことが今後どのような影響を人生に及ぼすのか、先生ではないために答えを見つけ出すことはできなかった。





 あれから私は朝ご飯として鮭を焼き、味噌汁を作った。といっても下準備は昨晩に済ませておいたため、本当に「焼く」と「作る」をしただけの単純作業だったけれど。ご飯も炊飯器の予約機能を以てすれば前日準備が可能であるため、装うだけで済んだ。副菜であるほうれん草のお浸しも、ただ鉢に盛り付けるだけ。これで朝ご飯を作ったと誇れるかは人それぞれだろうが、私にとっては中学生の頃からしていることだったために今更何も思わなかった。
 そして二人分の膳を食卓に出し、先生と一緒に食べた後、箸を置いたタイミングで私は彼から大事な話を聞かされた――ディビジョン・ラップ・バトルの予選に出場しようと思っていること。そのための仲間候補を今探していること。これからは今にも増して忙しくなること。
 私は驚きを隠せなかった。近頃はずっとヒプノシスマイクの話を口にしたがらなかった先生が、と。しかし同時に、今朝の空が余りにも透き通って見えた理由や、先生がやけに積極的に話しかけてきた裏にある思惑が分かって、私は安心した。
 ああ勿論、私はただただ先生を支え、応援するだけである。

ただしあなたが私といてくれるなら




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