珈琲の馥郁
第一章 昼下がりに居る蛹たち
雪解けがそろそろ始まろうかという浅春の昼下がり。六限目は古典の時間である。
午前は太陽も廊下側にいたからまだ涼しかったのだけれど、昼を過ぎた途端、校庭側の窓からひょいとそれが顔を覗かせ、燦燦とした光熱を放ってきたお陰で、教室はすっかり陽だまりに変わってしまっていた。きっとそのせいだろう、私は教室の一番後ろの席に座っているのだが、一見しただけでも全体の三分の二の級友の
そんなことを考えた後、私はとある男子に視線を注いだ。いや、何もその男子に恋をしている訳ではない――ディビジョン・ラップ・バトル。
今朝方に私を抱き締めてきたあの人、神宮寺寂雷先生は、彼の務めるシンジュク中央病院で(多分他の病院でも)天才医師と謳われているほど凄腕の医者だ。しかもそれだけに留まらず、約一年前に結成されてからほんの僅かで日本一に輝いた伝説のラッパー集団「The Dirty Dawg(略してT.D.D)」の元メンバーでもある。つまりはラップに関しても達者なのである。
とまあ、私のような並の人間には理解できない才能を持っている先生だが、T.D.Dには彼のように特別な人間があと三人いた。当時、高校生ながらに情熱的なラップにおいては誰にも引けを取らなかった山田一郎さんに、愚連隊の一員だったからか少し(といいつつかなり)暴力的なラップを繰り出していた碧棺左馬刻さん、そして――ファッションデザイナーとして活躍する傍ら、ポップで明るいリリックで人々をあっと驚かせていた飴村乱数さん。
「……ふう」
彼のことをなるたけ思い出さないようにしていたからか、久々に彼の眩しいまでの笑顔が浮かんできてびっくりしてしまった私は、それを誤魔化すように、けれども授業中ということを考慮して小さく息をついた。
さて、では何故私がT.D.Dの話をしたか、その理由を打ち明けようと思う。それは、T.D.D元メンバーである一郎さんの弟が、今まさに私が注視している彼だからだった。ちなみに、彼も三分の二に含まれており、その寝方は椅子に
山田二郎くん。私が親友の女の子と一緒にイケブクロの中学校に入学してから高校二年生もいよいよ終盤の現在に至るまで、要するに五年間、彼とはずっと同じクラスだった。このことを知る友人らからは「えー、それってもう運命じゃん! いいなー、私も二郎くんに運命感じたいなー」とか「東風さんとジロちゃんってさ、付き合ってんの?」とか言いたい放題言われている。しかし実を言うと、私と彼は今まで
勿論、挨拶だけは彼とも毎日きちんと交わしている。私が「山田くん、おはよう」と声を掛け、彼が「……おはよう」と素っ気なく返すのは定番の展開だ。
稀にちらとこちらを見てくれることもある。その度に煌めく彼のエメラルドの左目とトパーズの右目に、私が堪らず息をのむのもお決まりの流れだ。そして、私のことが苦手なのか、単に恥ずかしいだけか、結局ふい、とすぐに目を逸らしてしまうのも。ただ、男友達とは楽しそうに会話している事実と自身の願望からして、正答は後者であってほしいところだ。
つまるところ五年という、四捨五入すれば十年になるほど長い付き合いであるはずの彼と私は、未だに「挨拶するだけの級友」という間柄だったのだ。多分、友人は私と山田くんが挨拶している光景を何度も見るうちに、五年クラスが一緒という事実を照らし合わせて「東風さんとジロちゃん、付き合ってんじゃね?」という、幸せな勘違いに至ってしまったのだろう。本当に幸せな思考回路をしていると思う。その友人にも毎日挨拶をしているというのに。
とにかく女性慣れしておらず(あくまでも私の見解)かつ最近不良になったことで有名な彼だが、しかしクラスでは皆から愛されていた。
「うーん、それじゃあ……山田くーん」
先生が間延びした声で山田くんを指名するも、彼は眠っていて気付かない。そこで後ろの席から男子が乗り出して山田くんの右肩をトントンと叩いた。すると。
「――へぇっ!?」
何か怖い夢でも見ていたのか、びくりと体を強張らせて山田くんは飛び起きた。刹那、教室内に笑いが生まれる。私も図らずしてくす、と笑ってしまった。