愛しさを喰んで


 
「なまえちゃん! お誕生日おめでとう!」
「……え?」
 
 時刻は朝9時。寝起きで死にそうな顔の私の前にはいつもの白いスーツに身を包んだ見知った顔の男。
 家賃6万7千のアパートには似つかわしくないほどの綺麗な顔でどデカイ花束をにこにこと差し出しているこの男――斑目貘さんとは、ひょんなことから数ヶ月前に出会ったばかりだった。
 
「貘さん、私誕生日の話しましたっけ?」
「この前飲んだ時にしてたよ! 忘れちゃった?」
「そう、でしたっけ? ……まあいいのでとりあえず入って下さい」
 
 てっきり宅配か何かだと思って顔を洗ったくらいで出たのが恥ずかしい。貘さんはにこにことしながら「お邪魔します」と言って家の中に入る。これはあんな目立つ人をあんな目立つ場所で待たせるのは忍びなかったからで決して他意はない。
 
「適当に座って待ってて下さい」
「ごめんね、急に来ちゃって」
 
 それは本当にその通りだ。せめて前日に連絡でもくれればもう少し準備だって出来たのに。貘さんはとにかく顔が良いから部屋着で対応してしまったのが申し訳ない。
 
「ねぇなまえちゃん、せっかくのお誕生日だから俺にお祝いさせてほしいんだ」
「へ? 何でです? 申し訳ないですしいいですよ」
「だって俺いつもなまえちゃんにお世話になってるからさ、お礼させて?」
 
 ね? と綺麗な顔で念押しされてしまえば私はそれ以上なにも言えなかった。
 
 
 ***
 
 
 気が付いた頃には準備もそこそこにタクシーに乗せられていた。隣に座った貘さんが時折話しかけてくるが「はい」とか「へぇ」とか生返事することしかできない。それでも貘さんは随分楽しそうにしている。
 
「どこのお店から見たい?」
「どこって言われても」
 
 銀座の中央通りをタクシーは進んでいく。答えあぐねている私を見かねて、貘さんはタクシーを止めた。
 
「散歩しながら決めようか」
「はぁ」
 
 しがないトリマーの私にとって、一日銀座でショッピング。しかもハイブランドでも何でも選び放題なんて夢のようなことではある。しかしいざ好きなものを買ってあげる! なんて言われてもぽんと浮かんでこないのが現実だ。
 タクシーから降りたよく晴れた銀座の通りは眩しい。貘さんは私の横を歩きながら少年のようなきらきらとした表情で言った。
 
「そうだ、俺がおすすめのお店あるからそこに行かない?」
「じゃあそうしましょう。行きたいお店はその間になんとか考えますね」
「決まり!」
 
 そう言って私の右手を取ってぐいぐいと引っ張っていく。突然のことで驚いたけれど何だか嫌な気分ではないから、私も黙ってそのまま付いていくことにした。貘さんがあんまり楽しそうにするから既にプレゼントはこれでいいです、という気持ち。
 中央通りをニ本外れたところの小さなセレクトショップに貘さんは躊躇いもなく足を踏み入れる。中にいた店主と思われる人と話しているのをぼんやり聞いていたら、今度は試着室に押し込まれた。
 
「なまえちゃん、こういう系統の服が好きとかってある?」
「えー……難しいですね。強いて言うなら今日はワンピースの気分、かな?」
「了解」
 
 カーテンの向こうで貘さんと店主さんがいくつか見繕っているようだった。というか私が決めるんじゃないのね、と思いつつ適当に着てきた服を試着室の中で見つめる。銀座に行くって言われたらもう少しまともな服を着てきたのに。今日はつくづくこんなことばっかり考える日だ。
 
「これ、どうかな?」
「あ、ありがとうございます」
 
 手だけ試着室の中に入ってきて、服を何着か渡される。私はそれをフックにかけてとりあえず一番上のワンピースを着てみることにした。やわらかな素材のワンピースはデコルテの辺りがレースになっていて上品で可愛らしい。自分では普段選ばないようなデザインだったけれど、貘さんの見立てだからきっと間違いないんだろう。
 
「あの、どうでしょうか」
 
 ワンピースに着替えて顔だけ出して問う。椅子に座っていた貘さんはぱっと表情を変えてこちらに近付いてくる。それから「見てもいい?」と言って私は頷いて返した。
 少し緊張気味にカーテンを開ける。貘さんは笑みを湛えたまま「うん。すごく良い」と言うから私は思わず俯いてしまった。何というか、照れる。
 
「こっち向いてよ」
 
 貘さんがあんまり優しい声で言うから、私はおずおずと顔を上げた。いつもキリッとしている目が細められて私を見つめている。その目を見たら何も言えなくなってしまって、少しの間見つめ合ったまま動けなくなっていた。
 
「すごく、可愛い」
「あ、りがとうございます……」
 
 消え入りそうになりながら何とかお礼を言う。貘さんはかけたままの服をちらりと見てから「他のも着てみる?」と聞いた。私は少し悩んでから「これにします」とだけ返した。きっと着てみた方が良かったのかも知れないけど、貘さんがあんな表情をしてくれるならこれが良いと思ったのだ。
 
「わかった。それ、そのまま着てこう?」
「でも服、どうしましょう」
「送ってもらおうか」
 
 貘さんはそう言うと店主さんから袋を貰ってきた。私はその中に着てきた服を入れて試着室を出ようとしたところで靴が変わっていることに気が付く。
 
「サイズ、どうかな?」
「ぴったりです。でもこんなに色々してもらったら申し訳ないですよ」
「いいの! お誕生日なんだから。ね?」
 
 そう言われれればまた私は頷くことしか出来ない。少しだけヒールのあるパンプスは私をまるで童話のお姫様にしてくれるようだった。
 
「じゃあこれ、お願い。それからあっちの服も」
 
 試着室に残されたワンピースを指差して言う。店主さんはにこにことしながら私から袋を預かって見送ってくれた。ぺこりと頭を下げてショップを出る。貘さんはまた私の手を取って「どうせなら思いっきりおしゃれしちゃおう」と言ってまた私の手を引いて歩く。先程のセレクトショップから5分もしないうちに次の目的にたどり着いた。
 レンガ調の建物はパッと見では何のお店かわからなかったけど、貘さんはまた躊躇いもなくその飴色のドアを開ける。建物の中は一席だけの可愛らしいサロンで、髪を緩く巻いた女性がにこやかに出迎えてくれた。
 
「お待ちしてました、斑目さん」
「うん、じゃあよろしく。俺はそうだな……ちょっと出かけてくるから、なまえちゃんのことお願いね」
「えっ?」
「お任せください」
 
 そう言うと貘さんはひらひらと手を振ってお店を出ていってしまった。残された私は仕方無しに美容師の女性に導かれるまま椅子に腰掛ける。目の前に置かれた雑誌やヘアカタログの一冊を手に取ってパラパラと捲ったけれど少し困ってしまう。
 私の髪を梳かしながら「この後のご予定は?」と聞かれたけど、苦笑いしながら「わからないんです」としか言えなかった。
 
「それじゃあお召し物に合わせましょう」
「はい、それで大丈夫です」
 
 美容師さんはニコニコと頷いて髪の毛を巻き始める。私は着せ替え人形になった気持ちでその様子を鏡越しに見つめる。途中オイルやバームの好みだったり、前髪のセットをどうするか話をしていたらあっという間に時間は過ぎて、鏡の中には今まで見たことがないような自分がいて驚いてしまった。こういうの、成人式以来かも。
 そんな私を見ながら美容師さんは「少々お待ち下さいね」と言って一度裏の方に行ってしまう。呆け顔のまま鏡を見つめていると、小さな箱を手に戻ってきた。
 
「なまえさん、今サロンに来てくださった方にプレゼントしてるんです。良かったら付けてみませんか?」
「これ……いいんですか? いただいて」
「勿論!」
 
 差し出された箱をおずおずと受け取る。美容師さんは「鏡もありますから」と言うので私はその小さな箱を開けて中身を取り出した。有名ブランドの淡いピンクのグロスを少し緊張しながら唇に乗せる。服やヘアスタイルのこともあってまるで自分が自分じゃないような錯覚に陥った。
 
「可愛らしいですよ」
 
 その言葉にはにかむことしかできない。そうこうしているとドアが開く音がして私は思わずそちらを見た。そこには数十分前と同じように手を振っている貘さんがいて私は少し安心した気持ちになる。
 
「丁度終わったところでした」
「ありがとう。……うん、やっぱりいい。なまえちゃんは何でも似合うね」
「そんなことはないです」
 
 貘さんがあまりに自然に手を差し出すから、私も自然とその手を取って立ち上がる。貘さんは美容師さんと少し話をしてから一緒にサロンを出た。
 いつの間にか、太陽は空高く昇っている。
 
「さてなまえちゃん、朝から動いてお腹空いたでしょ? ご飯にしない?」
「あの、それも場所は決まってますか?」
「それが決めてなくてさ。食べたいものとかある?」
「うーん、どうしましょう」
 
 表の通りに出る道を手を繋ぎながら歩く。いつもは強く感じるビル風もなんだか心地良かった。
 ふと、ふわりと風に乗って美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。香りのする方を見ればテラス席のあるカフェが見える。繋いだままの手を少しだけぐい、と引っ張ると貘さんも気付いたようだった。
 
「いい匂いするね。あそこにする?」
「そうしましょうか」
 
 お店の前に出ている看板を見ればガレットが売りのお店のようで、私は貘さんに了承を取ってお店に入る。天気が良いからテラス席を選んでメニューを見ると、どれも美味しそうで困ってしまった。
 
「色々あるね。迷っちゃう」
「貘さんはどうします?」
「俺はそうだな……ベーコンエッグにしようかな」
「じゃあ私は生ハムとアボカドのにします」
 
 ウェイターさんを呼んで注文をし、談笑しているとあっという間に料理がテーブルに並んだ。その彩りの美しさと香ばしい香りに思わずため息が漏れる。
 
「あの、写真撮ってもいいですか?」
「うん。どうぞ」
 
 貘さんはそう言うと、自分の分のお皿を少しこちらに寄せてくれる。私は数枚撮ってからお礼を言ってお皿を戻した。貘さんがにこにこして「どういたしまして」と返してくれて、私は思い立ったようにぱちりと一枚写真に収めた。
 
「な〜に? 俺のことも載せてくれるの?」
「それは」
 
 そこまで言って口を噤む。目の前の貘さんはまたいたずらっぽく笑っている。からかってるんだ。私は「なんでもないです!」と言っていただきますをしてナイフとフォークを持つと、また楽しげに笑った貘さんも同じように食べ始める。皆に見せるなんて勿体ない、とは口が裂けても言えなかった。
 
 食後の紅茶を飲みながらこの後の話をしていると、私は急におかしくなって思わずふふ、と小さく笑った。「どうしたの?」と問う貘さんにカップを持ちながら向き直る。
 
「まさか、貘さんとこんな風に出かけるなんて思ってませんでした」
 
 ふと、貘さんとの出会いを思い出す。きっかけは私の職場のトリミングサロンの窓にマルコくんが張り付いてこちらを見ていたからだった。お客様のワンちゃんがどんどんふわふわにカットされていくのが余程気に入ったみたいで毎日のように見に来てくれるから、ある日中に入れて見学してもらった。その時に初めて貘さんとお話したなぁ。
 もう何ヶ月も前の話なのに、昨日のように思い出せる。
 
「あの時はびっくりしたよ。マルコが毎日同じ時間に出ていくから何してるのかと思って一緒に行ったらなまえちゃんとこのお店で窓ガラスにぴったり張り付いてるから」
「最初は私も驚きましたよ。でもワンちゃんたちも嫌がったりしなかったし、マルコくんの優しさが伝わっていたんだろうなって」
「あの時は迷惑かけちゃってごめんね。お店の中入りたいってワガママ言ったりさ」
「そんなことないですよ! お客様も中でお待ちいただいたりもしますし」
「じゃあマルコが犬の代わりだ」
「う〜ん、否定できませんね」
 
 私がそう返すと貘さんは声を上げて笑う。だってマルコくんてかわいい大型犬みたいなんだから仕方無い。ぶんぶんと尻尾を振っている想像が簡単にできてしまう。勿論貘さんが飼い主だ。
 
「梶くんとも一緒に行ったりさ」
「3人で来たときはさすがにびっくりしましたけど、梶くんも梶くんでちょっとワンちゃんぽいし」
「わかる。梶くんは子犬だね」
「賑やかで貘さんが羨ましいなぁ」
「じゃあ、さ」
 
 うちに来る? と急に真面目な顔で言うから、私は目を逸らせなくなってしまった。何も言えないまま蒼い瞳を見つめる。風に揺れた前髪がその片目を覆うまで私はぴくりとも動けなかった。
 
「ごめん、困らせて」
「いえ、全然……」
 
 困ったというより、何と返せばいいかわからなくなって黙り込んだ私に、貘さんは穏やかな表情のまま謝る。少しも嫌な気持ちはしなかったけど、貘さんの言葉が本気か冗談かわかりかねて返事ができなかった。
 貘さんは「行こうか」と行って立ち上がる。私も慌ててその後を追った。折角色々してくれているのに、不快な気持ちにさせてしまったのかも知れない。せめてもの気持ちでお会計をしようとするとやんわりと止められる。
 
「せめてここはご馳走させて下さい」
「大丈夫だよ。お誕生日の子に出させるわけにはいかないでしょ?」
「でも」
 
 私が出すよりも先にさっとお会計を済ましてしまう。ぐいと伸びをしながらカフェを出た貘さんは、私の方を向き直って「腹ごなしに散歩しよ」と言って少しだけ笑った。私はこくりと頷いて少し後ろを歩いた。昼下がりの銀座は人も多く、気まずさで少し間を開けていたらあっという間に人波に飲み込まれてしまった。
 数歩先なのに、貘さんがひどく遠く感じる。でもそれはきっと正しい距離感。私は近付きすぎてしまったんだろう。今思えば私は貘さんがどんな仕事をして、どんな生き方をしてきたのかも知らない。私が知っているのはマルコくんや梶くんと一緒にサロンに来てワンちゃんたちを見て楽しそうに笑い、たまにお酒を一緒に飲むってことくらい。よく考えれば名前と連絡先くらいしか知らないじゃないか。そう思うとふと足が止まった。私を置いて、貘さんはぐんぐんその背を小さくしていく。私は立ち尽くしたままその背中を見つめていた。
 私とは、住む世界が違う人。あの優しい瞳の奥にはきっといくつものつらい記憶が眠っているのに、その一つさえ知らない。段々いたたまれない気持ちになってきて、静かに踵を返す。多分もう、会わない方がいい。
 
「ちょ、っとどこいくのなまえちゃん! 後ろ見たらいなくてびっくりしたんだけど!」
 
 立ち去るよりも早く、息を切らして、貘さんが私の肩を掴んだ。
 
「あの、私」
「どうしたの? 何か嫌になること言っちゃった? さっきのことならごめんね、謝るよ」
「そうじゃなくて」
 
 私、貴方の横を歩く自信なんてありません。
 さっきまで浮かれて手まで繋いじゃって、馬鹿みたいだと思ったんです。
 ……流石に言えなかった。
 
「……ごめん、俺、なまえちゃんが引くほど体力ないからちょっと休ませてもらってもいい?」
 
 ぜえはあと肩で息をしながら貘さんが言う。綺麗な顔があんまりにも苦しそうに歪められるから私ははいと答えるほかなかった。
 
 
 ***
 
 
「大丈夫ですか?」
「……なんとか」
 
 買ってきた水を飲んだらいくらか落ち着いたようだけど、車止めのアーチに腰掛けた貘さんはまだ青い顔をしたまま答えた。肌はうっすらと血管を透けさせているし、走って暑いからと脱いだジャケットを掴む手は少し震えている。
 
「もしかして、俺よりなまえちゃんの方が体力ある?」
「多分そうだと思いますよ。ワンちゃんや機材はかなり重さがありますし、体が資本ですから」
「あーあ、格好悪いとこ見せちゃったな。ごめんね」
「そんなことないですよ。貘さんはずーっと格好良いです」
 
 私がそう答えると貘さんはパッと顔を明るくする。さっきまでの死にそうな目が嘘みたいに輝いて私は「もしかして騙された?」と内心思ったが、立ち上がった貘さんの足元がおぼつかなくて慌ててもう一度腰掛けさせた。
 ……本当に体力ないんだろうなぁ。
 完璧超人だと思っていた貘さんの意外な弱点が見えて、なぜだか私は少しだけ嬉しくなってしまった。
 貘さんは座ったまま私の手を取ると、長いまつ毛に縁取られた目でじっと私を見上げる。蒼い瞳に自分の姿が映っているように見えてひどく不思議な気持ちだった。
 
「なまえちゃん」
「はい、なんでしょう」
「夜まで一緒にいてもらってもいい?」
「勿論。こうなったらとことん付き合いますよ」
「最後まで君の誕生日をお祝いしたいんだ」
 
 今度は私が立ち上がった貘さんを見上げる番だった。ビルと雲の隙間から差し込んだ陽光で銀髪が輝き、まるで絵画のように見えた。
 呆けたままの私の顔はよっぽど面白かったのか「どうしたの」って微笑みながら言うから、さっき抱いた気持ちなんかどこかに吹き飛んでしまった。
 
「なんでもないですよ」
「今俺のこと、イケメンだなって思ったでしょ」
「その通りです。よくわかりましたね」
 
 素直にそう返せば、貘さんは珍しく困ったように「参ったな」と呟いた。照れているのか頬に薄っすらと朱を差して、その姿はなんだか可愛くて愛しくて思わず私もにこにことしてしまう。
 
「ま、いいや! とりあえず行こうか。お水ありがとうね」
「いいえ、これくらいしかお礼出来なくてすみません」
「今日はなまえちゃんが主役の日だからいいんだよ」
 
 ジャケットを着て、貘さんは左手を差し出した。今度は私も躊躇いなくその手を握って歩き出す。
 色々な話をしながら歩いた。貘さんのくれたパンプスは足にぴったりで、いくら歩いても疲れなんかなかったし、それ以上にこの時間があまりにも幸せで明日の仕事のことや生きる世界の違いなんかもう気にならなくなっていた。とにかくもっと、もっと一緒にいたい。それだけをぼんやりと考える。
 貘さんの話はどれも刺激的で、私の知らない世界を沢山教えてくれた。それから貘さんの職業が所謂”ギャンブラー”であることも初めて知った。今は世界で活躍するポーカープレイヤーとかもいるみたいだし、多分そういう感じなんだろう。マルコくんや梶くんとのことも教えてもらい、彼らが時に兄弟のように仲が良いのはそこに至る経緯があったことを知って、驚きと共に少しだけ羨ましさを覚えた。
 
「なまえちゃんのことも聞きたいな」
 
 そう言われれば私だって話さざるを得ない。昔は動物が怖くて仕方がなかったこと、近所の野良猫のチャッピーが死んでしまった時は悲しくて一晩中泣いたこと、痩せてぼろぼろになった毛皮を見て、少しでも動物に幸せになってほしくてトリマーを志したこと。学生の頃の恋人が乱暴な人だった話をしたら、私より貘さんが怒ってしまって数年ぶりに溜飲が下がったりもした。
 あちこち寄り道しながら歩いて、駅の近くまでやって来た。日が少しずつ傾いてきているのを見て今日の時間がもう半分もないことを悲しく思う。
 
「沢山歩いたね。タクシー拾う?」
「お任せします」
「じゃあ乗っちゃおう。歩いて行くにはちょっと遠いし」
 
 流れるようにタクシーに乗り込んで、貘さんは有名ホテルの名前を告げた。私は少しだけぎょっとしたけど、今日の様々な出来事を思い出して己を納得させた。
 街の灯りが少しずつ灯るのを見ながら車は目的地へと向かう。少しだけ渋滞に引っかかったこともあって、ホテルに着いたのは19時前だった。
 
「あの、貘さん」
「んー?」
「一応聞きますけど、ここには何の用事で?」
「あぁ、俺ここに泊まっててさ」
 
 取り出されたカードキーにはホテルのエンブレムが刻まれている。まさか部屋に……? と思ったけど、乗り込んだエレベーターの行き先はレストランのある階だった。
 小気味よい音を立てて開いたドアの先、慣れた足取りの貘さんとガチガチに緊張した私の対比はきっと滑稽だったに違いない。だって普通はこんな所来る機会がないんですよ。
 
「斑目様、お待ちしておりました」
 
 にこやかに挨拶する男性に案内され、個室へと通される。看板にフレンチレストランと書いてあったけど個室まであるとは思わないしましてやそこに通されるなんて想像もしていなかったから、私の緊張はピークにまで達していた。
 
「なまえちゃん、面白い顔になってる」
「マナーとかよくわからないので粗相をしたらすみません……」
「美味しく食べられたらそれでいいんだよ」
 
 それに個室だから俺たち以外いないし、と貘さんは付け足した。その小さな気遣いが嬉しい。
 まずは、と出された食前酒を飲みながらワインリストを見たけれど、正直何がなんやらさっぱりわからない。かろうじて"ロマネ・コンティ"だけは読み取れた。確かこれ物凄く高いやつ。
 
「飲んでみたい?」
「えっ!? いやいや、無理ですって。価値がわからない人間が飲むものじゃないです」
「何事も挑戦だよ?」
「そんな凄いの飲んだら折角の料理の味がわからなくなりそうなので勘弁して下さい……」 
「なまえちゃんは面白いね」
「どこかですか……もう既に緊張で私死にそうなんです……」
 
 私を見て楽しそうに笑いながら貘さんはワインをオーダーした。私は並べられたナイフとフォークを「端から、端から」と心の中で唱えながら見つめる。何か考えていないと雰囲気に飲まれそうだったから。
 
「わぁ、凄い」
 
 少し待って、目の前に置かれた前菜を見た。月並みな感想しか出てこない語彙力の無さが憎い。
 乾杯して飲み込んだワインはまろやかで、私好みの味だった。そのまま前菜を一口。美味しい。とにかく美味しい。
 
「何もかも美味しいです」
「気に入ってくれて良かった。まだまだあるからね?」
「フレンチのコースなんてちゃんと食べるの初めてですけど、前菜からこんなに鮮やかで美味しいんですね」
 
 口の中が幸せでいっぱい、って感じ。
 貘さんは私と違って優雅な手付きでフォークを口に運ぶから、思わず食べながら少し見惚れてしまった。
 
「どうかした?」
「ん、なんでもないです」
 
 貘さんの指先って男性にしては細くて爪まで整っていて、本当に綺麗。私よりもずっとずっと繊細に動くそれはまるで彫刻のように見える。
 反対に私の指は、慣れないナイフとフォークに悪戦苦闘するし傷だらけでお世辞にも綺麗とは言えない。動物を扱う仕事だからネイルの一つもできないし、クリームの類だって制限されるからささくればかりだ。いくらに綺麗に着飾ったって、元々持っているものが違いすぎる。
 
「今考えてること当てようか?」
 
 カトラリーを置いて貘さんは私を見る。あの瞳にじっと見つめられると、まるで金縛りにあったように動けなくなる。ワインを飲みながら微笑んで、静かに口を開いた。
 
「さしずめ、いくら着飾っても自分には似合わないとか、勿体ないとか思ってるでしょ」
「えっ」
 
 スープが目の前に置かれる。ほわりと漂った湯気の向こうで、貘さんの髪の毛が揺れた。
 
「なまえちゃんの考えてること、俺には全部わかるよ」
 
 蒼い瞳はシャンデリア灯りの下でもきらきらと輝いている。
 私の考えなんてすべて飲み込んでしまいそうな強い視線に、ごくりと唾を飲んだ。
 
「さ、次の料理も運ばれてきたし冷める前に食べようよ」
 
 その言葉にハッとしてスプーンを手に取る。そこからまた食事は進んで、メインディッシュのお肉は柔らかくてジューシーで舌の上で溶けるとはこのことかと驚いたり、最後に並べられたデザートの美しさに感動していたらあっという間に最後の一口になってしまった。
 これを食べてしまったら、楽しい時間も終わって現実に引き戻されてしまうような気がして、ぴたりとフォークが止まる。既に食べ終えている貘さんは心配そうな表情で問う。
 
「お腹苦しくなっちゃった?」
「いえ……一日、あっという間だったなぁって」
「まだ終わってないよ」
「それもそうですけど」
 
 ぱくりと口に含んだケーキはとても美味しかった。惜しみながら飲み込む。間も無く運ばれてきた紅茶の香りが心地よい。貘さんも同じようにカップを手に取って優雅な手つきでそれを口元に運んだ。
 
「料理、どうだった?」
「全部美味しくて、楽しくて……貘さん、本当にありがとうございます。最高の誕生日でした」
「ちょっと、まだ終わってないって言ったでしょ?」
 
 貘さんは少し慌てた様子でそう言うと、一呼吸置いて立ち上がり私の方にゆっくりと近付いて跪いた。まるで童話の王子様のようなその行動に少しだけ驚いて、いつもより低い位置にあるその顔を見つめる。
 ゆるりとした動きて私の手を取った貘さんは、少し強張った表情で口を開いた。
 
「もし嫌だったら遮ってでも嫌と言ってほしい。……俺はね、なまえちゃん。君と出会って色々話をするようになってから穏やかで幸せな日々を過ごせて凄く感謝しているんだ。さっき話したけど俺は根っからのギャンブル狂だし、君を不安にさせたり怖がらせてしまうこともあるかもしれない」
 
 一度言葉を区切って、息をつく。こんな貘さんを見るのは初めてで私の心臓も段々痛いくらいに早鐘を打っていた。
 白くて大きな手に少しだけ力が篭る。
 
「やらなきゃいけないことも沢山あって、あんまり詳しくは言えなくて本当に申し訳ないんだけどフラッといなくなることもあるかもしれない。それでも、絶対になまえちゃんの所に帰ってくるから、約束するから、俺とずっと一緒にいてほしいんだ」
 
 俺と付き合ってください。
 
 気付いたら私の両目からはぼろぼろと大粒の雫が溢れていて、ぐしゃぐしゃの顔でぶんぶんと頷いた。
 貘さんは立ち上がって私をぎゅっと抱きしめてくれた。その白いスーツやシャツが汚れることも厭わずに、力強く私を抱いた腕が暖かくて嬉しくて、いよいよ涙が止まらない。
 
「良かった。告白なんて生まれて初めてしたから緊張した。ありがとう、なまえちゃん」
 
 何か言おうにも涙で言葉に詰まって情けない嗚咽が漏れるだけだ。
 泣きじゃくる私の頭を撫でる手は優しい。今まで過ごしたどんな時よりも近い距離にどきどきしてどうにかなりそうなのに、すんなりとそれを受け入れている自分がいた。
 
「ずっと好きだったんだ」
「私も、すきです」
「……嬉しいな」
 
 立ち上がって、貘さんの顔を真っ直ぐ見つめる。涙と鼻水で私の顔はきっと見れたものじゃないだろうけど、少し細められた目を見たらそんなのどうでも良くなってしまった。
 
「うん。やっぱり今日のなまえちゃんは本当に綺麗だ。勿論、いつも綺麗だけどね」
「顔、ぐしゃぐしゃですよ」
「俺のこと思って泣いてくれたんだから、逆に可愛くて仕方ないでしょ」
「貘さん、変なの」
「変じゃないよ」
 
 バッグからなんとかティッシュを取り出して、涙と鼻水を拭う。化粧も落ちてもう滅茶苦茶なんだろうけどそれでも綺麗とか、可愛いと言ってくれる優しさがじんと心に沁みる。
 本物の王子様のように貘さんは望んだ言葉をかけてくれるし沢山のものを与えてくれる。ふとそれが無くなったことを考えて恐ろしくなってしまった。
 
「一応聞きますけど」
「なぁに?」
「遊びじゃないですよね」
 
 告白してもらってこんなことを聞くなんて、物凄く失礼なことは承知だ。
 けれど、今日一日甘やかな時間を過ごしてしまったらこんな時間が無限に続くことを願ってしまう。欲しいものなんて無いなんて思ったのに、浅ましい程に斑目貘という1人の男のすべてを望む自分がいた。
 
「本気だよ。例えばそうだな……なまえちゃんの所に行く時は香水付けないし」
「仕事のことがあるからですか?」
「そうだよ。そもそも女の子にこんなに沢山プレゼントしたくなったのも初めてだ」
「嘘だぁ、貘さん絶対モテるから、それは嘘」
「貰ったことはあるよ? でも自分がこんなに尽くしたがりの人間だとは思わなかった。というより、なまえちゃんを俺のあげたもので染めたいって思ったんだ」
 
 歯の浮くようなセリフを平然と言われて、思わず目を丸くした。
 どこまでも一般人Aでしかない私にどうしてそこまでしてくれるのか少し不思議で、思わず首を傾げる。
 
「やっぱり、変なの」
「だから変じゃないって」
 
 貘さんは私のことを座らせて、それから細い指先で目尻を拭った。
 
「俺はさ、人間の黒ーい部分を見すぎて疲れてたんだよね。だからなまえちゃんを見てると癒やされるというか」
「私だって黒い部分の1つや2つくらいありますよ」
「そりゃあるだろうけど、君はわかりやすいから。素直に照れて、喜んで、悲しんで、傷ついて。さっき俺から逃げたみたいに、何も言わないままいなくなろうとしたり」
「それは……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないし、怒ってもないよ。びっくりはしたけどね」
 
 思わずもう一度「ごめんなさい」と言った。貘さんは何も言わず、緩く巻かれた髪を一房取って返事の代わりに口付けた。それにびっくりして座ったまま後ずさる。背もたれが無かったら後ろに転んでいたかもしれない。
 私の反応を見ていたずらっぽく笑って、また頭を撫でられた。
 
「次謝ったら唇にキスするからね」
「……はい」
「とりあえず! 俺はなまえちゃんのことが大好きなんだよ。それだけは信じてほしいんだけど」
 
 蒼い瞳が不安そうに揺れる。
 こんなに沢山伝えてもらってるのにそんな顔をさせてしまったのが申し訳なくて、私は謝罪の代わりの言葉を必死に探す。
 まだアルコールの残っている頭は幸福でふわふわとした気持ちと一緒に言葉をぽんぽん生み出して、うまいことを何も考えられないまま思いついたそれを呟いた。
 
「私も貘さんのこと大好きですから、信じます」
 
 にこりと笑んだその顔は、きっと一生忘れられない程美しかった。
 
「なまえちゃん、ありがとう。……とりあえずお店出よっか。ちょっとバッグ貸してね」
 
 貘さんはそう言うと私のバッグを手に取って、ティッシュでぽんぽんと顔を拭いてくれた。
 それからあの淡いピンクのグロスを取り出して、唇にそっと乗せてくれる。流石にこういうことは慣れていないのか、少し震えた指先が愛しかった。
 
「これもプレゼントなんだ」
「え? でもこれはサロンの方からいただいて」
「お願いしてたんだよ。そうでもしないと受け取ってくれないでしょ?」
「それは……まぁ、そうですけど」
「よし、オッケー。また一段と可愛くなった」
 
 グロスをしまって、私のバッグを持ったまま立ち上がる。差し出された手を躊躇いなく取って引き上げられるように立ち上がった。
 
「言ったでしょ? 俺のあ「」げたもので染めたいって」
 
 最初からすべて仕組まれていたそれに、私は笑うことしか出来なかった。
 今朝部屋に来たことも、銀座に連れて行ってくれたことも、あの服もヘアメイクも全部貘さんの仕組んだことじゃないか。わかっていたのに、それを享受してついていったのは私だ。まるでこうなることを期待していたように。
 きっと、落ちるべくして落ちたんだろう。
 掌の上でころころと転がされていたとしても、斑目貘という男にいいようにされることは決して嫌な気持ちじゃなかった。
 
「カリ梅、食べたくなりました?」
「うん。今すぐ食べたいけど生憎手持ちがなくてさ」
「珍しいですね」
「お陰様で全部上手くいったから。……部屋にはあるんだけど、どうかな」
「ふふ、お供しますよ」
 
 腕を絡めて歩き出す。レストランに入るときとは違う気持ちで踏み込んだ一歩一歩が心地よい。歩幅を合わせて歩けることがこんなに嬉しいなんて、昼間背中を見つめたときには気付けなかった。
 
「……俺さ、嘘喰いって呼ばれてるんだ。相手の嘘とかブラフを見抜くからって」
 
 部屋に行くエレベーターの中で貘さんが静かに語るのをじっと聞いていた。きっと今まで私に言おうにも言えなかったことばかりなんだろう。目的の階に着くまでの十数秒が永遠に続けばいいのにと思った。
 
「相手の思考を考えすぎるのも、そりゃ疲れる時はあるからさ、梶くんとかマルコとかなまえちゃんとか……真っ直ぐに向かってきてくれる子が好きなんだ」
 
 ベルが鳴って扉が開く。
 広いエレベーターホールはゆったりとした空気で私たちを出迎えた。
 
「今日はなまえちゃんと一緒にいられて良かった。夜はまだ長いから、もう少し話をしたいんだけどいいかな?」
「勿論」
 
 カードキーの短い電信音が私の心臓をとくりと跳ねさせた。慣れた手付きでドアを開けて私を招き入れる視線は、優しさと一緒に少しの獰猛さを孕む。
 ここまで来て何もわからない顔を出来るほど、私は子供じゃない。
 
「どうぞ、なまえちゃん」
 
 誘われるまま踏み込んだ部屋は広く、美しく整えられている。その中にふと香った貘さんの香水の香りが愛しくて私は思わず微笑む。
 貘さんから貰った服や靴。それを超えるくらいの愛と、貘さん自身。重くのしかかるような支配と愛しさに飲み込まれたくて私はその胸に飛び込んだ。
 
「夜は、まだ長いから」
 
 さっきの貘さんの言葉を繰り返す。
 その腕が背に回されて、ゆっくりと扉が閉められた。
 
 夜はまだ長いから。