油断は禁物
この地に降り立つと、緊張に強くなった自分に
は、感謝をしたくなる。
いよいよ、負けたら終わりの試合は始まった。
仲間達のコンディションもバッチリで、到着も
予定通りで、とにかく気分は良かった。
ただ一つ気になるのは、単独行動を何故か自分
だけ、仲間達から禁止されてしまっているこの
状況のみ。
「お前は、勝手にチョロチョロすんな。」
『ちょっと、トイレに行ってただけなのに。』
「そう言いながら、前だって白鳥沢に捕まって
たじゃん!」
さらっと抜けるように美月が女子トイレへと
向かえば、そこから出てくる頃には扉の向かい
の壁で及川と岩泉が待ち構えていて、そこに
は誰もいないと思っていた彼女は、驚きの声
と共に肩がびくっと跳ねた。
高校3年生にもなって、僅かな距離を移動する
だけなのに、及川と岩泉が美月の心配をして
付いてくるのが恥ずかしいのか、2人を交互に
見ると、ため息を吐いて眉間に皺を寄せ、先程
の会話に至る。
『ハジメも徹もそんな怖い顔しなくても、
みんな試合にいっぱいいっぱいで、私なんか
に絡む余裕なんて無いってば。』
しかもこんな所で…と笑いながら付け足そうと
すれば、とある人物が男子トイレの前で、挙動
不審な態度を取りながら、歩き出しているのが
目に入り、美月の言葉はピタリと止まった。
『あれって、烏野の…日向君?』
彼女は不思議そうに首を傾げ、気になる方向を
指をさせば、及川と岩泉も気になったのか、
彼のいる方へ足を運ぶ。
「何してんの?」
及川の呼び掛けに振り返ったその人物は、2人
を目にすると「だっ…」と言葉を漏らしながら
緊張で固まってしまい、顔は見事に青ざめて
いた。
「2mを倒してきたんだってな?さすがだ。」
「ハイッ、イイエ!!」
「どっちだよ。」
『ハイ、イイエ…ふふっ。』
岩泉が日向に賞賛する言葉をかけても、彼は
恐縮した返事をして、その返事が可愛らしく
見えた美月は、思わずクスリと笑ってしまう。
「試合になると、このチビちゃんほんと厄介
だから、今のうちにどっか埋めちゃう?」
すると魔が差した及川は揶揄いたくなったの
か、ニヤリと笑うと日向に向けてそう言い出し、
及川のその表情に、日向はすっかりと怯えきっ
てしまっていた。
「しっ失礼します!」
2人から逃げ去るように挨拶をする日向を及川
は楽しそうに見届けて、岩泉は「オイ」と隣で顔
を顰めた。
『ちょっと、徹。今のは意地悪!』
美月も日向を可哀想に思ったのか、怒った口調
で及川にそう指摘して、日向に謝ろうと彼に
視線を向ければ、前を見ずに走った彼は人と
ぶつかって、彼女はそのぶつかった人物に視線
を上げて、目を丸くする。
「…ヒナタショウヨウ。」
『若利君。』
日向に鋭い目を向けて、彼の名前を口にし、
美月の声を耳にした牛島は、一瞬だけきょとん
とした顔を見せたが、彼女の目の前には大きな
壁となる幼なじみが邪魔をして、彼女の姿を
見る事が出来ず、彼の優しかった目は、すぐに
元に戻ってしまった。
「と、及川・岩泉か。」
「何、このタイミング。」「知るか。」と3人が、
互いに睨み合っている姿を目にして、しまった
と美月が頭を抱えるも時は遅く、不機嫌な顔を
見せる及川と岩泉に『穏やかにね。』と宥める
声をかけるしか、出来なかった。
「お前誰には最後の大会か、健闘を祈る。
美月を泣かせるのは、胸が痛いが。」
「ホンッット腹立つッ!あと気安く美月の
名前を呼ばないでいただきたいね。」
「そもそも泣かせねーし。全国行くんだから、
まだ最後じゃねぇんだよ。」
「……?全国へ行ける代表枠は一つだが?」
首を傾げて、さも当たり前の表情で2人に返す
牛島の言葉は嫌味では無く、それが尚更2人を
苛立たせるのか、及川も岩泉もひくひくと顔を
引きつらせる。
『日向君、大丈夫かな。』
美月もいつもだと、負けないから!と仲の良い
友人といえど、きっぱりと言い返すのだが、
今回は間に挟まれて震えている日向の方が心配
だったのか、3人の会話よりも彼の様子を伺っ
ていると、周りの声もざわつき始めた。
「かっ、勝つのは烏野で…!」
一触即発の空気の中、彼が言い返して口を開け
ば、大きな他校の先輩達はジロリと彼を一斉に
鋭い視線を向けるので、それに見兼ねた美月は、
ついに守るように、彼の間に入って行く。
『それ以上は、日向君も怖いって!』
「えっ…ちょ…その!」
そこまでです!と日向を庇って、彼を隠す形で
美月がむぎゅっと抱きしめたら、勢い余って、
日向を自分の胸元へ無意識に押し付けてしまう。
彼女は、Tシャツの上にジャージを羽織っている
だけだった故に、容量が大きめの柔らかい感触 は見事に伝わり、日向は耳まで真っ赤に染まっ
ていた。
「ちょっと、美月!!?」
『皆顔が怖いよ!?日向君いじめるの禁止!』
「馬鹿、お前…そうじゃねえよ!!」
「俺だってそこに顔を埋めたことないのに…。」
「いやそこでもねえだろ、いやそこもだけど
あー、このボケ美月。」
突然の出来事に、先程まで酷く睨み合っていた
御三方は目を見開いて、及川が羨むように嘆く
と岩泉は怒り出し、牛島はショックで言葉を
失う。
そして牛島は、言葉よりも、本能で体が動くの
が先になり、ぐっと彼女の腕を掴んで引き剥が
すと、恥ずかしさで気が動転していた日向は、
必死に美月に頭を下げていた。
「…離れろ。」
「ひいいぃ、すみません!すみません!」
『ごめんね、びっくりしちゃったよね。
日向君は悪くないよ。』
「お前こそ、美月に触るなよ。」
「こうしないと、離れなかっただろう。」
美月が日向を落ち着かせようと頭を撫でれば、
状態は悪化して、牛島達は更に不機嫌な顔を
見せるので、日向は他の3人に無実を主張する
ように、手を挙げて数歩下がると、今度は運が
悪いことに青根とぶつかってしまい、彼は悲鳴
をあげてしまった。
「誰だろうと受けて立つ。」
自分の目の前に次々と誰かしらが現れる中でも
動じることなく、1人先に背を向けた牛島は、
自分の元に引き寄せていた美月の頭をくしゃり
と撫で、そう言葉を残して立ち去り、彼女は
黙って彼の背を見届ける。
「消毒、消毒!!!」
『ちょっと、頭ぐしゃぐしゃになっちゃう!』
「うるさい、うるさい!チビちゃんにも
ウシワカにも、簡単に触らせちゃってさ!
ほら、やっぱりこうなるじゃん!!!」
『今さっきのは、たまたまだったのに。
そして及川さん、これは目立つからちょっと…。』
「知らない。美月の言うことなんか聞かない
もんねーだ!」
怒った口調で彼女の手を引いて、仲間の元へ
戻ろうとした時には、日向達の姿は既に無く、
この後すぐに、控えている試合がある彼らは、
足早に歩き出した。
先程の行為は岩泉も気に入らないのか、その後
に彼わしゃわしゃっと美月の頭を乱暴に撫でて、
「行くぞ。」と彼女の背を押して前に進む。
まだ試合も始まっていないのに、少し疲れた顔
で帰ってきた2人を見て、待っていた花巻と
松川は、またかと苦笑いを浮かべるのだった。