気の抜ける日
「そんなベタな話、アリかよ。」
川西がそう呟いた目の前で、彼の発するあまり
にもベタ過ぎるシチュエーションは、残念ながら
現実に起こっていて、呆気に取られていた川西
の横で、同じ寮の同じ部屋で暮らすチームメイト
も目を見開き固まっていた。
隣の人物は言葉を失っており、どうやら彼の方
が川西よりもショックは大きい。
「美月は危なっかしいな。ビックリするだろ。」
『あの…瀬見先輩、助かりました。』
いつもに増し冷え込んでいた朝に練習を終えて
教室へ向かう途中、日直が今日は自分なのだと 足早に駆け出す彼女は、足を踏み込んだ場所が
昨日の雨で、出来た水たまりに氷が張っていた
らしく、運が悪い事に足を滑らせた。
春高を終え、大きな仕事が一段落して、彼女の
気が抜けていたにしても何でそんな所で!?と、
美月の後ろを歩いていた川西と白布が慌てる。
怪我をさせない為にと彼女に手を伸ばすが、2人
は出遅れてしまい、彼らよりも先に彼女に一番
近い位置にいた瀬見が転ばないよう、彼女を
支えていた。
「…セーフ、間に合って良かった。」
『ありがとう…ございます。』
逞しい瀬見の腕に支えられて、その至近距離に
お礼を言った美月の頬はみるみると赤くなって
いき、その反応が余計に白布に衝撃を与えた。
「賢二郎。お前、息してる?」
ひらひらと白布の前で、彼よりもダメージがまだ
少ない川西が手を振ってみても、彼からの返事が
聞こえないので、川西は白布の様子を伺って声
を掛ける。
『ご迷惑をかけて、本当にすみません。』
「おう、怪我が無いなら何よりだ。珍しいな、
美月のそそっかしい所見せるなんて。」
『練習終わりはどうも気が抜けちゃってました。
本当にありがとうございます。』
「だから、気にすんなってば。」
そんな中でも、美月と瀬見の二人の会話はまだ
続いていて、ペコペコと申し訳なさそうに彼女
が瀬見に頭を下げれば、気にするなと頭を撫で、
彼は裏の無い爽やかな笑顔を美月に向けていた。
彼女を支えた時のその距離に、胸が高鳴ったのは
瀬見も同じで、彼の顔も誤魔化しているが赤い。
何とも、甘い雰囲気が流れている二人の空気が
面白くない2人は、その場で黙って見ている事
しか出来ずにいて、それが尚更、白布達を悔しく
させていた。
「わーお、天然王子様だね。英太くんは。」
それを一部始終、楽しそうに状況を眺めていた
天童の言葉が通り過ぎる際に後輩達に追い打ち
をかけ、川西はまた余計な事をと、先輩に呆れ
た顔を向けたが、なにも言い返す事は出来ない。
『ダメダメ、もっとしっかりしなきゃ。』
当の本人は、その距離に恥じらいがあるものの、
今は自分のそそっかしい部分を直したいという
気持ちの方が強いらしく、それが唯一の救い。
『賢二郎達もごめんね、危うく怪我して迷惑
かけるところだったよね。』
「え?いや…うん、美月に怪我が無かったから
何より。」
瀬見は先に姿を消すと、そう言って次は慎重に
ゆっくりと歩き出す彼女は、白布達の方向へと
振り返り、罰が悪そうな苦笑いを向ける。
「練習終わりのドジな美月なんて、今更だし。」
『瀬見先輩カッコよかった。』なんて、彼女に
言われて心の傷を抉られる予想までしていたが、
自分が相手で瀬見もきっと困っただろうと謙虚
な反応。
そんな彼女を見ると、白布も冷静さを取り戻せた
のか、普通の声色で返事をすると美月に合わせ、
彼はゆっくりと歩き出す。
川西は嬉しいような、鈍すぎる彼女の手強さに
不安を覚えるようなと何とも複雑な気持ちを
抱いてしまい、返事はつい意地悪な口調。
ツンと彼女の額を小突き、彼も一緒に教室へと
向かうのだった。
『賢二郎ごめん、ちょっと手を借りてもいい?』
「ああ、俺は大丈夫。」
美月は普段はどちらかといえばしっかりものな
タイプで、朝を反省した彼女は気を引き締め、
気持ちは切り替わっていた。
なので朝のそそっかしさが嘘のようで、美月は
放課後の練習もシャキッとした面持ちで、淡々
と作業をこなす。
自分だけは不可能だと分かれば、素直に仲間を
頼って効率良く物を運ぶ彼女は、その時ちょうど
手が空いていた白布に手伝いをお願いをして、
大学生との練習試合の準備を忙しく行っていた。
「美月ちゃんは、ほんとによく働くよね。気は
利くし、可愛らしいから気をつけないとパクッ
と誰かに食べられちゃうかもだよね。」
「牧野は食べ物では無いだろう?」
「うん、食べ物じゃないけど。…でもほら、
美月ちゃんって程よくモチモチしてて、何か
美味しそう。」
「こらこら、そんな言い方は止めなさいよ。」
ストレッチをしながら、動く美月を観察する事
を天童は面白がって、隣で一緒にストレッチを
していた牛島は、彼の発した意味を分からない
といった表情で首を傾げ、マイペースに自分の
準備を整え、二人の会話を耳にした大平も天童
を注意する。
「美月、その顔はさすがに失礼だろ。」
『ごめん。…でも、牛島先輩と目が合うと
やっぱ緊張するんだもん。』
前よりは慣れたけどと言っておきながら、美月は
緊張で強ばった顔で笑い、白布と一緒に得点板を
ガラガラと押して歩き、白布は注意しながらも
心の奥ではホッとする。
牛島と美月の2人の間は変わらず、会話も必要
最低限は出来るが、ドリンクを渡す時に彼女の手
が震えていたりもして、牛島も彼女は自分の事が
苦手なのだと勘違いをしており、彼女もまた、
彼を前にするとどうも動作がぎこちなかった。
「どうしたの、若利君。」
「あまり、見過ぎない方がいいのだろうな。」
牛島は練習に差支えがなければ、別にそれでも
いいと思っており、まだしばらく2人の距離が
縮まる様子は見えなかったのだが、この天童との
会話がきっかけとなったのか、次の休憩で周りも
驚く事件は起きてしまった。
『牛島先輩、ドリンクです。』
「ああ、すまない。」
今回は、物事に落ち着いて取り組める日だった
からか、手も震えずに牛島に手渡す事が出来た
美月は嬉しく心の中でガッツポーズをして、それ
は表情にも出ていたのか、牛島の視界に入った。
珍しいな、今日はやけに嬉しそうにしている。
彼がじーっと見ていても、今日は彼女も心に余裕
があるのか、強ばらずに穏やかさを保っていて、
牛島も彼女が自分に苦手意識を持たれていると
いう感覚は、その時は気が緩んでいて抜けて、
牛島の中には好奇心の方が勝つ。
その普段よりも柔らかい美月の表情に、天童の
言葉を思い返したのか、彼は無意識にふにりと
何を思ったのか、突然彼女の頬に触れていた。
『う、う、牛島先輩…?』
「天童の言った通り、お前の頬は餅に近しいもの
があるな。」
美月に触れた後には、分析するように感想を
述べていて、周りはこのありえない光景に呆然
とする。
そして、その次にはそれを美味しそうだと発言
する牛島の言葉を仲間達は聞き逃さなかった。
「若利が美月とスキンシップ…?」
「お前、その言い方は語弊を招くだろ。」
「待ってください、牛島さん!それは…!!!」
目を丸くして牛島の隣で驚く瀬見、先程の会話
を知っていて頭を抱える大平、何が何やらで
その状況に混乱をする山形の中で、彼女が持つ
か心配をした白布が慌てた声を上げた。
嫌な予感は的中しても、今日はどうやら、一歩
出遅れる運のない日らしい。
白布の制止の声も虚しく、憧れの人物との接触
で、美月の頭の中は茹だってしまい、思考回路
が完全ショート。
『うう…瀬見先輩もうダメです。』
「美月、分かったからしっかりしろ。」
再び慌てて駆け寄る瀬見と、反射で手を伸ばした
牛島が彼女を支え、それを面白がって爆笑する
天童の笑い声が体育館に響き、それは白布と川西
の悩み事がまた一つ増えた瞬間だった。
「若利、言葉には出さなかったが表情が嬉しそう
だったな。」
「今日の英太君は役得でなんだかズルいなあ。」
「お前のせいだろ!」