それは、美琴が高2の秋のこと。
水仕事を全て終え、ポケットに入れておいた
ハンドクリームを手に取り、自分の手に馴染ま
せていると、背後から大きな影が現れ、それは
美琴を丸ごと包み込んでいた。
「美琴ーっ。」
『あ、侑さん!』
一瞬、その後ろにかかる重量に驚いたが、それ
がよく知る先輩だとわかると、安心した顔を
見せて優しく微笑むので、侑はそれだけで
大満足。
「ええもん、付けとるやん。」
『ああ、せっかく塗ったのに。』
そして彼女と自分の手を重ね、しっとりもっちり
とした、触り心地のいい感触は癖となり、同じく
乾燥するこの季節に悩みを抱える彼は、悩む間も
なく、彼女からその潤いを奪った。
『言うてくれたら、ちゃんとおすそ分け
したのに。』
「美琴から貰うんが、ええんやて。」
『うぅ…っ、塗り直さんとカサカサに。』
「別のとこなら、今すぐ潤わしたるけど?」
まだ美琴を抱きしめたままの侑はそう言って、
背後から美琴の顔を覗き込むと、撫で回して
いた手は、そのまま顎に移動する。
その近さに耐え切れなくなった彼女が、ぎゅっ
と目を瞑ると、その至近距離を見かけた治が
すぐさま駆け寄って、侑の尻を思い切り叩いた。
「美琴に何しようとしとんねん、この変態!」
「痛っ、何すんねん!男は皆変態や!!」
『そこは否定しないんですね。』
本当は飛び蹴りの勢いだったが、美琴が巻き
込まれ怪我をしないようにと、治の咄嗟の判断。
すぐに離れろや!と怒りながら、2人を引き剥が
し、侑に変なことをされていないか、酷く彼女
を心配した。
「ほんまに、何もされとらん?」
『大丈夫です。あっ…ハンドクリームは、
取られちゃいましたけどね。』
「ハンドクリーム?」
そう嘆きながら、再びハンドクリームを手に取り
塗り直していると、治が不思議そうな顔で、首を
傾げた。
そこから香る果物の香りが本物に近くて美味し
そうで、ついつい彼女の手を取り、彼は自分の
鼻に近づける。
「何これ、めっちゃ美味しそうやん!」
『食べちゃダメですよって…治さん!』
香りに釣られて、思わず彼女の指を甘噛みを
して、その甘さとは逆に切ない味がして、
治の眉毛は悲しそうに下がる。
突拍子のない先輩の行動に、美琴の顔は林檎
のように真っ赤になっていた。
着替えを済ませ、自転車置き場まで向かえば、
つい先程まで賑やかだった周りは一気に静か
で、昨年まで一緒に帰っていた北や尾白の姿
もそこには無いので、彼らが卒業し、あれ
から半年経っても、その寂しさは少しだけ
心に残っている。
『あ、しもうた。』
そしてこの度は運が悪いことに、その乗って
きた自転車は、登校中にパンクしてしまい、
今日だけは家まで押して歩かないといけない
ことを思い出し、口からは哀愁漂うため息
だけが出ていた。
ほんのりと照らされた街灯も、夜空に散った
星も、北達と歩いている時は綺麗に感じていた
はずなのに情けなくぎこちない振動を受けながら
ゆっくりと歩き、楽しかった時間とのギャップ
で、いつもよりも長い時間に感じているからか、
余計にそれが心に隙間を作った。
来年はまた…
『あかん、何か…今日はあかん!
心がカラッカラなんかもしれん…。』
頼もしい同級生だってちゃんといるのに、まだ
引退までだって時間があるのに、マイナス思考
になる気持ちが襲ってくるのは、このひんやり
としてきた空気の影響か。
何となく鼻の頭もつんと痛くなって、段々と
下がっていた顔を無理矢理上げると、彼女の
横から影が伸びてきて、気配を感じなかった
美琴は、怖くなりぐっと唇を噛み締めた。
『角名…先輩?』
「水臭いじゃん。帰る方向は一緒なんだから、
声掛けてくれても良かったのに。」
伸びてきた手は角名の大きな手で、彼女の
押した手の上から自分の手を重ねていて、
それが美琴にはすごく暖かく感じた。
「女子1人で、こんな時間に帰ったら危ない
でしょ。てか、乗って帰らないの?」
『今日自転車のタイヤがパンクしとって…。』
「じゃあ、尚更言ってくれればよかったのに。」
貸してとハンドルは彼に奪われて、彼女の代わり
に角名が自転車を押し、申し訳なさそうにおろ
おろと戸惑う美琴に向かって、いいからと
優しく笑うと、1歩また進む。
「今度から途中まで、一緒に帰ろうか。」
これから練習遅くなってさらに暗くなって危ない
からと付け足して、彼の時間を割いてしまって
いいものか、返事を悩ませる美琴に気がついた
のか、俺がしたいからと言い出すので、彼女も
縦に頷くしかない。
『ありがとうございます。』
彼のその一言心は潤って、そう言葉を言いかけ
たら道の途中の石につまづいてしまい、視界が
ぐらんと歪んだ所で、彼女は現実に引き戻される。
『ん…、ここどこ!?寝とった?』
電車の振動で、大きく崩れた自分に驚いて顔を
上げ、電車に移るモニターを見上げて、すぐに
自分が今いる現在地を確認する。
どうやら、1つ前の駅で目覚めたらしく、乗り
過ごしは免れて、危機一髪に安堵の息が漏れた。
寝ぼけ半分で駅から降りて、そこからまた彼女
はもう1つの失態を犯し、眉間に皺を寄せながら
踵を返し、何度目かのため息を吐く。
『せや。今日は、休みやった。』
ついつい、いつもの癖でバイト先である治の店
に向かった彼女は、今日は休みだった事を思い
出し、スケジュール管理もちゃんと出来ていない
のかと情けない気持ちで歩いて、夜空を見上げる
と先程の夢とその気持ちは、何処か重なった。
やっぱりお店へ寄って何か食べて帰れば良かった
と後悔をしたが、ここ最近、治に甘えっぱなし
な気がして、どうしても気が引ける。
『秋は好きやけど、この時間はどうも苦手や。』
自宅まであと少しのはずなのに、足取りは重く、
ぽつりと言葉を零すと、着る服も失敗したのか、
外気が身に染みて、自然と視線も徐々に下がって
いくと、ブーッブーッとスマホが鳴り始めたので、
自然と背筋が伸びてしまった。
着信画面には、思わぬ人物の名前が表記されて
いて、彼女は目を見開いて、慌てた様子で電話を
取った。
『…先輩?』
「美琴、久しぶり。ごめん、忙しかった?」
夢にも出てきたその声に驚いて、電話越しでは、
いきなり謝るので、彼女はその逆だと彼に伝え
たくなって、すぐに否定をする。
『いや、今日はオフなんです。』
「良かった、何となく…声が聞きたくなって。」
数ヶ月前では考えられない、彼の積極的な発言
に思わず驚いて言葉を詰まらせると、彼は不安
そうに「嫌だった?」と尋ねるので、美琴はそれも
また、しっかりと否定した。
『何か不思議で…。さっき、先輩が夢に出て
きたんですよ。高校の時の、初めて一緒に
帰った時の。』
「懐かしいね、そんな事もあったね。」
楽しそうな声で答えているが、自分から声を掛け
ておいて、その後は彼女と目線を合わせる事が
出来ず、黙々と毎日一緒に帰っていたという、
少し切ない彼からすれば、しょっぱい思い出。
でも、美琴は隣に彼がいるだけで安心だった
のか、素敵な思い出だと思っており、あの時は
ありがとうございますと、彼の口元が緩む言葉
を口にしていた。
『夢見て、声も聞いたら、先輩に会いたく
なってきました。』
「じゃあ、会いにおいでよ。」
楽しかった思い出話をしながら歩き、彼女が
そう言って笑うと、すぐに角名からは返事が
返って来て、驚いて返す言葉が止まると、
ガチャンと鍵を開ける音だけが響いて聞こえて
きた。
「コラ、歩きながら帰ってたの?危ないでしょ。」
『ちょっとの距離やったから、大丈夫です。』
「いやいや、その隙に敵に襲われたらどうすんの。」
『ふふっ、そんな。敵って何ですか?』
電話越しに聞こえてきた音に心配をして、
彼からのお叱りを受けた彼女はそれも嬉し
そうに笑い飛ばす。
「心配だから、俺にちゃんと顔見せてね。」
そう言って切った翌日には、彼の出場する試合
のチケットが届いていて、素直に来て欲しいと
言えない所は、変わらない彼がおかしくなる。
角名から受け取ったユニフォームで足を運ばせ、
その彼女の姿に悶絶する彼を見るのは、まだ
少し先のお話。
「お電話ありがとうございます、おにぎり宮
です…て、お前なんやねん。営業中に、変態
みたいな声出すな。」
「今日の美琴が可愛過ぎてヤバい、無理、
息が。」
「…お前、今日会ってへん俺への当て付けか?」