「ねえ、静岡に移転する予定ないの?」
「せやな、お前が北さん倒せたら考えるわ。」
角名にとって幸せだった日から数日が経ち、
治はいつもの様に角名から、先日の感想を無理
矢理に聞かされていたその日。
真剣な声で尋ねてきた仲間の問いに、治は表情
を歪ませ、彼が静かになる魔法の名前を唱え
れば、二人は互いに無言になった。
「あの子がのびのびしとる土地を離れろ言う
んか?」と眉一つ動かさず首を傾ける北を勝手
に想像した角名は、前言撤回と言って静かに
電話を切る。
「…あー、ほんま唐突やなアイツも。」
可愛かったや、嬉しかったと抽象的な表現だけ
で、具体的な内容は決して明かさない角名に
イライラしながら、勝手に切られたスマホを
睨み、ポケットに雑に突っ込む。
兵庫に帰って来たらぽわんとした表情で、赤葦
の時程の心配は無かったが、『角名さんと仲良
くなれた気がします』となんとも言えない表情
で笑顔を向けていた事が記憶に新しい。
そして、その呼び方も勿論引っ掛かっていた。
彼女の交流の幅を狭めたい訳じゃないが、そろ
そろ自分の中にも限界は来ているのだろう。
ふーっと深い息を天井に吐き、治は冷静さを
取り戻そうとする。
あと少し経てば、彼女がここにやってくるの
だから。
『お疲れ様です。』
「美琴、おかえり。」
学校から帰ってきた彼女は、明日から春休み。
卒業まではもうここで働くようになるので、
毎日彼女と顔を合わせる事となる。
彼は平然を取り繕っていつもの笑顔で彼女と
挨拶を交わし、再び忙しくなる時間に向けて
準備をした。
会える日が増えれば増える程、治の中に抱いた
不安も増えていて、口頭試験のお疲れ様会と
称して仕事終わりに飲み会を開けば、いつも
よりもペースが早い彼はらしくなくいつもより
飲む量が多くて、美琴と立場は逆転していた。
『治さん、そろそろ帰りましょう。』
「んー、嫌や。バイバイしとうない。」
足取りはまだしっかりしているので、美琴が彼を
支えて歩くのは免れそうなので、そこは何とか
救い。
『大丈夫です、まだバイバイしませんから。』
しかし、ちょっぴり甘えん坊な口調の我儘には 困り、自分も普段はこうなのかもしれないと
反省をして、彼の腕を引っ張った。
「美琴、寒いから温めて?」
『わ、ちょっ、引っ付きすぎです!』
治が倒れ込んだら大変だと思い、タクシーを
使おうとを決め、彼と2人で自宅へ向かう為に
乗り込めば、座ってすぐに抱きついてくる治に
彼女は慌て始める。
その密着する体温に美琴の顔も一気に熱くなり、
到着して扉が開けば、恥ずかしさから逃げ出し
たくてすぐにお金を払い、外気の冷たさを
求める。
「へへっ、捕まえたでー。」
『きゃっ!?…治さん勘弁してください。』
彼女が一息つくのも束の間、しかしそれも直ぐ
に治の大きな身体に包まれて、へにゃりと笑う
彼を背に引き摺りながら、彼女は鍵を取り出し
て扉を開けるのだった。
『…部屋まで、こんなに遠かったやろか。』
羞恥で疲れ切った声でポツリと吐いていた美琴
は何とか部屋まで治と戻って来て、この後は
何からするのが正解だろうかと頭を悩ませる。
問題の治はといえば、未だに彼女に甘える体力 は残っている模様で、がっちり彼女をホールド
する状態を保っていた。
『そんだけ酔っ払ってたら、お風呂は危ない
ですしね。』
とりあえず引っ付きっ放しの治を剥がして、
彼が前に置いて帰っていた着替えを出して座ら
せると、彼女も自分の着替えを取り出して、
その場を離れる動作を見せれば、治の眉毛は
下がっていた。
「美琴、どこ行くん?」
『治さんが着替えてる間にお風呂入って
きます。』
「じゃあ、俺も入る。」
『今日は危ないから止めておきましょうね?』
子供を宥めるように美琴は治を頭を撫でながら
そう告げれば、割と素直な所はやはり侑とは
違うといったところか。
「待っとるな?」と素直に脱ぎ始めるので、
彼女はぎょっとしてすぐにその場から離れて
自分も寝る支度を整えて戻ると、ベッドで寝息
を立てている治が見えたので、彼女は安心を
して、彼の横へと腰掛けた。
『お布団、ちゃんとかけんと風邪ひいて
しまいますよ?』
何故か、掛け布団を掛けずに彼は横たわって
いて、美琴が腕を伸ばそうとしたら、それは
治に捕まって、彼女も一緒に転がされてしまった。
「美琴、寝たフリに騙されたな?」
『もう、素直に寝とってください!』
普段穏やかな分、これは侑よりも厄介かもしれ
ない。
彼女の頭にはそんな考えが過ぎり、抜け出す道
を探してみたが、元運動部、そして全国クラス
だったその力にかなうはずがなくて、まんまと
腕の中に閉じ込められる。
「…頼むから、遠くにはいかんとって。
お願いやから、俺の傍におって欲しい。」
そして、その力とは反対に弱々しい声で願う声。
いつになく、不安がる彼の声は放っておけなく
て彼女は思わず、彼の頬に手を取っていた。
『私は、何処にも行きませんよ?』
ゆっくりと美琴の指で撫でられる治の頬。
治は、彼女の言葉を耳にすると不安は和らいだ
のか、ゆっくりと目を伏せて彼女の肩に額を
寄せた。
「ありがとう。」
珍しい一面を見せる彼に美琴も優しく微笑み、
彼の頭に触れながら、彼女も力が抜けて意識が
遠のいていく。
次に治が瞼を開けた時はまだ外は薄暗いまま で、しかしそんな視界がはっきりしていない時 でも、その光景はバッチリと彼の目に映って
いた。
「…アカン、やらかした。」
自分の腕の中ですやすやと心地良さそうに眠る
彼女。
治の記憶はしっかりと自分の頭の中に残って
いた。
情けない姿を見せた事に後悔をして、でも彼女 の優しさの居心地の良さに至福を感じる。
すると彼女も目が覚めたのか、もぞもぞと起き 始め、まだ彼女は寝惚けているのか、彼を見て
へにゃりと笑っていた。
『治さんやあ。』
「…美琴、ほんまにありがとな。」
治のお礼にとんでもないですと掠れた声で返事
して、彼女は目を擦るうちに段々と覚醒して
きたのか、そわそわとし始めた。
『治さんが記憶無くなる程飲むのは、珍しい
ですね?』
その距離感に恥じらいを持ち始め、ゆっくり
彼から下がりつつそう話せば、彼からは思いも しない返事が返ってくるので、彼女は目を丸く
する。
「…記憶は、ある。」
その返事に美琴はクスクス笑い始め、彼女よりも
今度は治の方が顔は真っ赤になっていくと、彼
はヤケクソ気味にくしゃくしゃと自分の頭を
掻き乱した。
「失態を覚えとんのは、なかなか辛いな。」
『ふふっ、可愛いらしい治さんも私は嫌い
やないですよ?』
「美琴ちゃんは、忘れっぽいからいつもオロオロ
しとるもんな?」
『うぅっ…、それは耳が痛いです。』
本心が露わになったのは、酒に酔って霞んで
くれた事に安心する反面、寂しさも心に残る
治は、誤魔化すように意地悪な言葉を向けて
笑い、背を向ける小さな愛しい温もりをまた
求めて、彼は再び自分の元に引き寄せた。
「美琴の味噌汁、飲みたなったわ。」
『うぅ…じゃあ、そろそろ離してください。』
「んー。もうちょっとだけ、こうしたらな?」
どうせなら、もう少しだけ甘える時間を追加
して。