これはきっとお酒の勢いなんかじゃない。
真面目な彼が、ふざけてそんな事を言い出す
人間ではないとわかっている分、美琴は胸が
苦しかった。
決して、赤葦に唇を奪われたせいでもない。
好意の言葉を向けられて嬉しいはずなのに、
彼女の脳裏には何故か別の人物がどうしても
浮かんできてしまい、その人を思うと彼女の
頬には涙が伝っていた。
動揺から反射で掴んだ美琴の手は小さく震え、
彼女の違和感に気がついた赤葦はハッと我に
返り、彼女からゆっくりと離れる。
赤葦を傷付けてしまった事に罪悪感を抱く彼女
は止めどなく涙が溢れ出て、その涙に赤葦も
また胸を痛めたのか、そっと彼女の涙を指で
拭った。
『ごめんなさい…、何でやろ。』
「違う、君は何も悪くない。君の気持ちを聞く前
に、俺が先走った行動を取りすぎた。だから
美琴ちゃん、そんなを顔しないで。…怖がらせ
てごめん。」
『ちゃいます!お願いですから、謝らんといて
ください。赤葦さんは、一つも悪くないん
です。』
赤葦の謝罪に彼女は更に否定を重ね、彼の腕を
掴むと必死に首を振って彼に謝り続け、彼女の
動作からこれが初めてだと知ってしまった赤葦
は、自分の犯した失態に眉を下げた。
「美琴ちゃん、話を聞いてくれてありがとう。
今日はもう、ここでさよならと言わせて欲しい。
勝手でごめんね、これ以上は…。」
君を傷つけたくないんだ。
赤葦は悲しそうに美琴の目を見ていて、その
視線が彼女の胸を締め付け、最後まで彼に上手
く言葉が伝えられない美琴は、悔しさから唇を
噛み締める。
赤葦は彼女に自分の本当の気持ちを伝えれた
だけで十分だと、また柔らかく彼女に微笑ん
で、「また」と言い残すと、彼女から背を向け
て立ち去った。
『何してんねん、今のは失礼やろ。』
情けない、意気地無し…と、やっと彼女が発する
事の出来た言葉は、返事を発せなかった悔しさ
から、自分を叱責するものばかり。
赤葦の表情が忘れられない美琴は、彼を追いかけ
たいはずなのに、自分の気持ちが混乱して足が
思うように進んでくれない。
あんなにも、自分を大切にしてくれていた。
こんな自分を好きだと言ってくれた。
今までを振り返ると余計に彼女も胸が苦しく
なり、立っているのも辛くなった彼女は、
小さくしゃがみこんで啜り泣いた。
「美琴?」
彼女が蹲って動けずにいると、その声は突然
自分に降ってきて、美琴が顔を上げれば、彼女
のよく知る先輩の姿。
『北さん、私は本当に最低な人間や。』
彼の顔を見たら、彼女の涙は余計に止まらなく
なり、それを心配したその人物は走ってここ
まで来たのか息を乱しており、彼女の目線に
合わせて屈み込むと、優しく彼女の背中を撫でた。
「気が済むまで、泣いたらええ。」
震える声で彼の名前を呼ぶ前に北にそう言われ、
しばらく彼に寄り添ってもらうと、自然と美琴の
気持ちも段々と落ち着いて、やっとゆっくりと
呼吸が出来る。
北は一旦離れて立ち上がると、手を彼女に差し
出し、引き上げるその手は温かく、心が安らぐ
温もり。
『私は、北さんに優しくされる資格は無いん
です。』
その心地のいい温もりに甘えてしまう自分が
余計に嫌で、彼女はまた赤葦を思うと自己嫌悪
から自分を咎める言葉を口に出すと、再び彼女
は彼の温もりに包まれていた。
「そんな事ない、美琴は最低な人間でもない。
余計な事は、もう考えんでええ。」
ぎゅっと北に抱きしめられると、緊張は和らぎ、
彼はそのまま美琴を受け止めて宥め、じんわり
と再び目に涙を浮かべる彼女の頭を撫でる。
その居心地の良さにも罪悪感を抱く美琴に、
北は何も考えない事を伝えるように、抱きしめ
る力を強めるので、彼の優しさに涙が落ちる
だけだった。
組合の飲み会に参加して、早めに切り上げて
きたその帰り道、思わぬ光景に彼の全身は熱く
なった。
2つの影が重なるのが遠い場所から見えた時、
それが美琴の姿だとすぐに気がつくと北の心は
乱され、それを幻であってくれと願い、彼女の
元に駆け寄る彼にはもう、その涙の意味は
分かっていた。
彼女から離れたその影は、以前治が彼に伝えて
いた赤葦という人物だと北はすぐに分かった。
選ぶのは美琴であって、自分が口を出す事では
無い。
自分の本心を隠して、彼女の笑顔を壊したく
なくて、呪文の様に何度も何度もそういい
聞かせた。
嫉妬で自分勝手に気持ちを告げて、彼女をこれ
以上苦しめるのは、あまりにも酷過ぎる。
だから、せめて、今は抱きしめさせて欲しい。
彼も美琴と抱擁を交わして自分もまた気持ちを
沈め、冷静さを彼女の温もりで取り戻す。
「とりあえず、一緒に帰ろうか。」
美琴の涙が落ち着いてから、2人は並んで歩き
出し、彼女に掛けた言葉も自分の中で思って
いるものを伝え、夜空を見上げた。
「自分を責めんと、美琴の素直な気持ちを出し
たらええと思う。美琴がどんな答えを出したと
しても、それは美琴の気持ちや。誰も責めたり
せんよ?」
俯いていた美琴は北の顔を見上げ、どこまでも
自分の気持ちを尊重してくれる彼に、感謝しか
無かった。
再び甘えっぱなしの自分に自己嫌悪に陥りそう
になれば、お見通しの彼からは、「先輩には
甘え。」と釘を刺され、彼女は苦笑いを浮か
べる。
『北さん…私。』
美琴が真剣な表情に戻って、自分の想いを告げ
ようとすると、美琴の胸は熱くなる。
ずっと胸に秘めていたものに確信した感覚。
彼女が立ち止まって北の名を呼ぶと、彼は
優しく微笑みかけていた。
美琴が自分の正直な気持ちを吐き出し易いよう
に、彼は「ゆっくりでええよ」と柔らかい言葉
を送る。
彼女が次に発する言葉は、自分に向けられた
ものでは無いだろう。
この子には、幸せになって欲しい。
そう願う彼はゆっくりと目を伏せ、彼女の言葉
を覚悟して耳を傾けた。