とある男は、未知の感情に酷く混乱をしていた。
「何なん、この感じ!」
それは最初は気にも留めていなかった、ただの
一つ年下の後輩だったはずなのに、この数日で
誰よりも一生懸命な姿が彼の目に入る。
少し慣れてきた新入生が過酷な練習に嘆き始め
る頃、他の後輩が侑の性格を知ると徐々に距離
を置き始める中、彼女だけは違って見えた。
『宮先輩、聞きたい事があるんですけどええ
ですか?』
侑の厳しい物言いに嫌な顔を一つも見せず、
自分が気になる点は遠慮なく質問し、自分が
それに答えた後は礼儀正しくお礼を言って、
自分の邪魔にならない行動を取る。
ただの真面目な後輩だという認識だけでいいはず
なのにその妙な感情は突然朝に訪れ、それは侑が
治と登校し、校門で彼女と鉢合わせた時の事
だった。
「およっ?奇遇やな。」
本日は朝練が無く、彼女を見つけるとすぐに治
からそう声を掛け、双子を見た美琴はすぐに頭
を深々と下げる。
『あ、宮先輩おはようございます!』
その姿に律儀な事でと侑が彼女を観察している
と、「相変わらずええ子や」と治の目尻は以前
よりも更に下がっていた。
「揚尾さん、おはよう。」
「は?揚尾さん…???」
侑は、まだマネージャーの名前を覚えていな
かった。
治もまた、自分と同じはずだと思っていたのに
自分の知らない間に彼女を知った言い方をする
片割れに、侑は目を見開く。
「どっちも宮やから、俺は下の名前で呼んで
くれたらええよ?部活の時も困るやろ?」
『えぇっ!?でも…。』
「俺は治の方で呼んで欲しいな。」
『そう言われるんやったら…、分かりました。
じゃあ改めて、治先輩おはようございます。』
「おん、おはよう。」
美琴の挨拶に治も満足して改めて挨拶を返して、
にこにこと微笑み合った後に、彼女は驚く侑と
パチリと目が合った。
しばらく瞬きをすると美琴も段々と冷静になり、
改めて下の名前で呼び直したら恐れ多いと感じ
たのか、申し訳無さそうな表情に変わる。
再び頭を下げて立ち去る美琴に、治はご機嫌で
手を振って見送り、侑は彼女に何も発しないまま、
遠くなる彼女の背中を見つめた。
「お前、いつからマネージャーと仲良うなっとん
ねん。」
「あんなに慌てとったら、転びそうやな。」
「人の話聞けや!」
侑の質問が全く耳に入らない治は、マイペース
に歩き始め、 いつの間にか置いてけぼりだった
自分の状況が気に入らない侑は、自分の席に
着くと同時に苛立ちから頭を掻き乱し始めた。
何故か治の馴れ馴れしい話し方にも腹が立ち、
自分だって割と会話はしていたはずなのにと
寂しさが出てくる、不思議な感覚に困惑する。
「あの子もあの子で、何やあの顔は…。」
心のモヤモヤを残したまま、机に突っ伏している
と銀島が怪訝な顔でそれを眺め、必然的に授業は
始まり、いつもは待ち遠しく思う部活の時間も
珍しく早く感じた。
銀島は侑が不調なのかと心配していたが、練習は
至って変わらずで、寧ろ朝を補う形で動きも丁寧
だった。
朝に行ってない分、力は有り余っている気も
して、朝の苛立ちを吹き飛ばすついでに居残り
練習も今日は時間の許される限りやる事にした。
「だー!!!治、そこでサボんなや!練習に
ならんやろが。」
「お前、付き合うてやっとんやから文句言うなや!」
「あぢー、春なのに汗が止まらへん。」
角名は逃がしてしまったが、治や銀島を巻き
込んで、時折チームメイトの気になる点を
お馴染みの厳しめ口調で指摘をしていると、
まだその場に残る後輩の姿が侑の視界に入る。
「揚尾さん、無理して残る事ないで?」
『いや!無理とかやなくて、タオルとか新しい
の置いといた方がええかなと。』
「それくらいは自分らで出来るし、遅うなる
から合わせんで大丈夫やからな?」
『ありがとうございます。帰りは北先輩が
御一緒してくれるそうで、まだ残れます。
今は先生に呼ばれていらっしゃらないんです
けど。』
「…あの人、ほんま隙が無いな。」
『今日は、動いていると落ち着くんで助かり
ます。これ、持っていきますね?』
「持っていくの手伝おうか?」
『大丈夫です!先輩達の練習の邪魔にならん
よう動くんで、気にしないでください。』
タオルとボトルを拾い上げる美琴は笑って治と
そう話すが目の奥は少し切ない。
何も無い所で転びそうになるので、らしくない
と彼女の心配をする銀島が彼女を手伝おうと
すれば、侑の身体は自然と動いていた。
「あの子、一本ボトル忘れとるわ。」
「貸し、持ってくわ。」
「侑が自ら雑用を!?」
「うっさいわ、たまには俺かてするて!」
銀島が持ったボトルを取り上げ、洗い場にいる
美琴に声を掛けると、彼女は慌てて謝り、それ
を受け取った。
『すみません!あかん、今日もまたヘマが多い
ですね。』
「いや、人間忘れもんくらいするやろ。」
『…!!?』
初めて聞いた侑からのフォローの言葉に戸惑い、
目を丸くして見上げる彼女の口元がむずむずと
動いて、侑はそこまで厳しくしていたのかと
頭を抱え、深く息を吐いた。
「俺の練習で言う事、ホンマにきっついよな?
さすがに言い過ぎとったんかも。」
『そんな事は!仕事向上の為やと思うとるから
全然何ともないです。』
「仕事工場?学生の内からからそんな社畜せんで
ええやろ!?今日やって俺のせいで落ち込んどる
んとちゃうんか?」
やっと引っ掛かっていた侑の本音がその場で吐き
出て、突然の謝罪に驚く美琴が逆にフォローを
入れれば、冗談を挟む侑の返しを面白く思った
のか彼女はクスクス肩を揺らして笑い出し、
侑も今まで味わった事の無いそのリアクション
に動揺をする。
『すみません、笑うのは失礼ですよね!』
「いや、変な事言うたんはこっちやし。」
『すみません、落ち込んどったんも先輩の
せいやなくて別の事やったんです。』
「は?別なん?」
『気を遣わせてしもうて、すみません。』
事情を説明する美琴は、それは侑のせいでは
なく、数人のマネージャー仲間に退部を相談
されたのが理由にあると悲しそうに笑った。
寧ろ、隠されるよりはっきり言って貰える方が
楽になると彼女は侑に説明を続ける。
『自分の力不足やなって落ち込んどったけど、
宮先輩が面白いから、元気出ちゃいました。
これからも先輩のお陰で楽しくやれそうです。』
「ぐっ…!!!」
やんわりと向けられた笑顔に、彼もまた妙な
感情が胸の奥から突然出てきた。
普段なら気を使って損をしたと悪態を付く所を
他の部員からは絶対に聞けない「面白い」という
フレーズのその聞き心地が良く、その嬉しさに
思わず唇を噛み締める。
「それ、もう一回言うて!あともう一回教えて!」
聞き慣れないその言葉に彼女は口元を押さえて、
嬉しそうな声で明るく答えた。
なかなか戻って来ない侑と美琴を心配する治は、
二人が一緒に体育館へ戻ると、大丈夫やった?!
とまずは彼女の様子を伺った。
『宮先輩に面白く励ましてもらいました。』
「ツムが面白い!?」
「美琴、宮先輩やなくて侑やろ?」
「美琴!!?」
「せや、可愛いらしい名前やわ美琴。」
「知っとるわ!こっちも呼ぶタイミング探っとった
のに!!」
いきなりの片割れのその呼び方にショックを
受ける治は、美琴と侑を交互に見た後で、彼女
の肩をがっしりと掴みながらわさわさと揺らし、
勝ち誇った侑の表情が余計に治に火を付ける。
「弱み握られとんなら、遠慮なく先輩に相談
したらええからな?!」
「お前、普段どんな目で俺を見とんねん。」
賑やかな体育館で揺さぶりに耐えれず目に涙を
浮かべるタイミングで北が現れ、そこから震え
た双子を見るのは、彼女も初めての光景。
きょとんとする後輩に、ほどほどに覚えたら
ええとアドバイスする銀島は、さりげなく彼女
を遠ざける技をそこで覚える。
それを見逃さなかった侑と治が銀島を指摘する
と、まだ話は途中だと目を光らせる北がまた
二人をこってりと絞った。
「確かに、美琴って呼ぶ方がチームの仲間入り
って気がするな。」
「「「北さん!!?」」」