お祝いを忘れずに
『クロー、って…まだ寝てるよね?』
夜久の怪我が将来に影響を及ぼさないものだと
分かって安心し、ミーティングを済ませて、
帰宅して、一息ついたこの空間に、今日の試合
できっと疲れているだろうと、様子を伺った
美月が顔をそーっと扉から覗かせていた。
この時間帯には、夕日が差し込んでいたはずの
この部屋は、季節のせいなのか、すっかりと
外は暗くなっていて、んーと生返事の声と共
に、カチッと部屋には、明かりが灯される。
「研磨は…?」
『今日はもう眠くて行けそうにないって。』
この事を予想していたのだろう、美月はいつも
よりも小さいサイズのケーキを片手に部屋へと
やって来ていて、まだいらないよね?とUターン
しそうになるその足に、黒尾は待ったをかけた。
「今、食べたい。」
『そっか、じゃあ出すね。』
ガシガシっと頭を掻いて、起き上がった黒尾の
前に座って、彼女がケーキを取り出せば、定番
の生クリームの乗ったケーキを目にして、黒尾
も自分だけだと特別感を感じるこの日は、胸を
弾ませた。
「わざわざ、悪いね。」
『皆焼いてるのに、クロだけ無しとか…。
そういうの、したくないんだもん。』
「美月ちゃんの、そゆとこ好きよ?」
自分はさらっとこちらに向かって笑顔で吐く癖
に、その言葉を反対に向けられれば、もう!と
恥ずかしさから、怒った口調になる彼女の反応
は何とも堪らない。
好きな子はいじめたいタイプです、認めます。
と心の中では自分の気持ちを肯定して、黒尾は
照れる彼女におまけの意地悪を追加して、美月
の前で、大きく口を開けていた。
「美月、あ。」
『え、何なに、どうした?』
「え、アーンしてくれねえの?」
用意周到な彼女は、フォークを準備してくれて
いて、調子に乗って黒尾が催促をしてみたら、
案の定、彼女はピタリと自分の動きを止め、
顔を赤く染めているので、そのリアクションが
何とも面白いと感じる彼は、笑いを堪え、体を
震わせる。
揶揄うと満足した表情を見せ、冗談だってと彼
がフォークを握ろうとしたら、彼に言われた
通り、美月はフォークを手に取って、一口分の
ケーキを黒尾に差し出すので、逆に予想外の
行動に、黒尾の方が固まっていた。
「美月チャン…?」
『クロ、手が痛いんでしょ?持ちづらそう
だから、ちゃんと手伝うよ?』
寝ぼけていて忘れていた、負傷していた利き手
に、黒尾はしまったと罰が悪そうに視線を落と
した。
美月の優しさに甘えて、彼は目の前に差し出さ
れたフォークに齧り付き、甘さが引き立つ、
自分好みのその味に、小さく「美味し。」と目を
細めた。
『よかった、クロのお口にあったようで。』
「ごめん、もう大丈夫だわ。」
柔らかく目尻を下げた、その表情に胸を痛め、
自分も夜久と同様、彼女に心配をかけていた事
を詫びて、いたたまれない気持ちが押し寄せた
彼は、美月を自分の胸元に抱き寄せる。
『クロ、大丈夫。もう楽しいことしか無いのが
わかっているから、泣かないよ。』
すると、彼が不安にさせた事に詫びる気持ちは、
彼女にはお見通しだったようで、試合後の表情
とはまた違う、こちらを見透かしたその瞳に、
黒尾は目を丸くさせた。
『まだ食べるよね?はい、クロ。あーん。』
もう次に気持ちを向けている美月の表情は晴れ
ていて、彼女の切り替えの早さには、毎度驚か
されてしまうのだが、今はそれよりも何よりも。
「いや、もう自分で食えるから!」
恥ずかしがって怒る彼女を見たかったのに、
その表情はほんの一瞬で、黒尾のお世話をせね
ばという使命感の方が強いのか、美月は彼に
1つも恥ずかしがる素振りを見せること無く、
フォークを再び近づけてくるので、黒尾の方が
寧ろ羞恥に耐えれなくて、ギブアップ。
しっかりとテープが巻かれた手で止めてみても、
今日ばかりは全く聞く耳持たないのか、美月は
いいから!と黒尾にケーキを近づけていた。
「甘、うまっ。」
もう一口、その甘い口溶けに翻弄されて、今
しか味わえない幸せを素直に噛み締めていると、
今日は本当にどうしたのだろうか、口の端に
ついたクリームまで、彼女は拭うのだ。
『クロ、顔真っ赤!』
「お前、それ…わかってんだろ。」
『ふふふっ、バレたか。』
たまには立場逆転と美月は楽しんでいて、顔を
顰める黒尾に舌を出して笑い、自分も隣で一口
口にすると、目を輝かせて『私天才かもしれ
ない!』と手応えを感じたのか、その味を自分
で褒めた。
『クロ、改めて誕生日おめでとう。』
「どうも、ありがとう。」
お礼を言っても頬杖を付いて、視線をなかなか
合わせない彼が可笑しくて、くすくす美月が体を
揺らせば、隣の彼は横で小突く。
もう一口と、そそっかしい美月の隙を見つけて、
黒尾も仕返しにと、彼女の口元に顔を寄せた。
「美月、付いてるぞ。」
普通は指で拭うはずのものをこの男は、わざと
舌を使って舐めとって、すっかり形勢逆転を
食らってしまった美月は、いつもと同じ顔。
目を潤ませながら『クロの意地悪っ!』と怒り
出して、黒尾もご満悦の表情で、また彼女から
楽しそうに口角を上げて、一口催促をしていた。
「え、もしかしてお風呂も介抱してくれんの?
美月チャン、一緒に入る?」
『なっ…!そんなわけないじゃん!!!
お風呂難しいなら、研磨に頼むしかないよね。
お願いの電話してみよっか。』
「バカ、冗談だよ…!お前そんな事してたら
後で何言われるか…。」
「ねえ、クロ。俺が何?」
「研磨クン、いつの間に…!!!?」
「美月のクリーム拭ってた頃から。
…クロ、次の試合もよろしくね。」
「ひいいぃ!!!!」
そこにもう1人ひっそりと現れて、目は笑って
いない孤爪のその笑顔に、どんどん黒尾の表情
は、青冷めていく。
『研磨もケーキ食べる?食べかけでごめん。』
「大丈夫。美月のケーキ、美味しいから。」
『我ながら、すっごく美味しかった!』
美月は誇らしげに孤爪に差し出して、彼も1口、
口にしたら、さすがと彼女を誉めていた。
ちらりと孤爪と黒尾の視線が合うと、孤爪も
ふわっとした笑顔を黒尾に向ける。
「クロ、改めておめでとう。」
「どうも。」
孤爪の祝福の言葉にも、黒尾はきちんとお礼を
返し、美月はそんな二人を見て、嬉しそうに
微笑む。
もう少しすれば、きっと彼の祖母から夕飯の声
が掛かるだろう、その後美月から聞いた木兎が
彼にお祝いの電話を掛けてきたりもして、彼の
誕生日はもう少し賑やかに続く模様だ。
「クロに頼まれたとしても、お風呂は絶対に
一緒に入らないから。」
「お気遣いありがとう孤爪クン、お風呂は
黒尾さんも間に合ってるからね。」