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警察官による些か意地悪が加味された尋問に、身包みを剥がされた訳でも拷問を受けた訳でもないのに何だかとても辱めを受けた気分である。
潜入捜査官としてもほんのごく一部で、警察官として現場で活躍する彼は物語内で描かれている事はなく、それでも潜入捜査官になるくらいなのだ、優秀な警察官なのだろう。
それにさっきの意地悪な尋問の方法は…まさか俗に言うハニートラップではないのだろうか。囁かれた耳元の温度を思い出してしまい、再度赤面になりそうなのを堪えながらオムライスを口に運ぶ。
バレてないかな、そう思いながらチラと斜め横の彼を見るとオムライスを食べているだけなのにどことなく上品で丁寧な所作が目につく。
「ん?どうしたなまえちゃん」
「…いえ。え、ていうかちゃん呼びは継続なんですか?」
「えっ、景光くんって呼んでくれないの?」
「え?」
「えっ?」
尋問用だろうと思っていたちゃん呼びはどうやら彼の中ではそのまま継続するものだったらしく同じく私の景光くん呼びもそのまま採用されていたらしい。
「…嫌じゃないですか?こんな、初対面の人間にくん付けで呼ばれるの」
「なまえちゃん、って呼ばれるの、嫌…?」
「…別に、嫌じゃないですけど…」
「オレも一緒」
ニコッと笑いこちらを見ながら、口にせずとも「景光くんって呼んで」と視線が訴えてくる。
「…わかりました、……景光くん」
「ん」
満足したのだろうか、彼ーー景光くんは残りのオムライスを胃の中へとおさめていった。
私も食べ終わり、ごちそうさまでしたと伝え食器類を台所へと運ぼうとすると、洗うよ、と声を掛けられるも食洗機があるのでその気遣いは不要である旨を伝え、そのまま座っておいてもらう事にする。コンパクトな食洗機だがオムライス2人分の食器なら余裕である。この量なら三日いや四日分でも余裕だろう。溜めていた小皿やグラス類などと共に突っ込みタンクに水をセットしてボタンを押す。
初めはもちろん自炊をやる気があったが如何せん食器洗いが面倒で即購入を決めた。最初の内はそれなりに稼働していたが残業が続くにつれ食洗機用洗剤は減らずにビニールゴミと空き缶だけが増えていった。久し振りにまともな食器を洗っているからだろうか食洗機の嬉しそうな振動音を聞きながらリビングへと戻る。
「あの、…景光くん、煙草好きに吸ってくださいね?ストックはたくさんあるのでお気になさらず」
「…ありがとう、なまえちゃん。悪いなとは思ってたんだけど目に入るとやっぱり吸いたくなっちゃって」
「どうぞどうぞ。まだ3カートンはあるので」
「なまえちゃん、ヘビースモーカー?」
「いや…仕事中はさすがに吸えないですけど飲んでる時は吸う本数増えちゃうしで…休みの日は飲んで吸って寝るみたいな感じでしたから買いに行くのも面倒で」
「…景光くんは今とてもなまえちゃんの健康状態が心配になったよ…」
「健康診断では特に…指摘された事ないので大丈夫だと思ってます」
「本当は…?」
「…臓器の指摘はないですが、痩せすぎ、くらいですかね。でもそれ以外はホントに健康体なので!」
言いながら、…景光くんにも煙草を渡し、自分も食後の一服を始める。
ヘビースモーカー、とまではいかないと思っているが飲んでいる時などはどうしてもその箱へと伸びる手が続いてしまう。その割には未だに何らかの指摘を受けた事はない。それをアピールしてみたもののこの警察官、優秀すぎないか。全体的に細身なせいか体重に関しては要チェックを受けたがこれに関してはもう体質的なものだと思うので自分ではどうしようもないものである。
正直に白状すると納得したのだろう景光くんも渡された煙草に火をつける。
「オムライス、ありがとうございました」
「どういたしまして」
お互いに煙を纏わせながらしばらくの間、静寂に包まれる。
オムライス、おいしかったな。兄もよく作ってくれたが景光くん程の出来ではなかった。が、なんと言えばいいのだろうか、出来上がりも作った人間も違うというのに、何故だか懐かしい味がしてしばらく会っていない兄を思い浮かべる。最後に会ったのはいつだっただろうか。会う度に久し振りな兄はちゃんと食事は摂っているのか?仕事はどうだ?と私の事ばかり気に掛けていたが碌に連絡も取れず泊まりに来ても夜中にごめん仕事だ、と言って家を後にする兄が私も心配で、
「なまえちゃん」
「なに?お兄ちゃ、ん……」
突然呼ばれた声に返事をし振り向くが、そこにいるのはもちろん兄ではなく、景光くんだった。
「…すみません、忘れてください……」
「ふふ、いや、オレにも兄がいるから…先生とかに間違えて呼んじゃった事あるよ」
先生に対して兄と呼んでしまうのはきょうだいあるあるなのだろうか、しかしそもそも今は学生の立場でもないし自分がいくら兄の事を考えていたとはいえ景光くんにお兄ちゃんと言ってしまった事は正直穴を探して入りたい気分であるがそんな都合よく穴はないので頭を抱えていると、再び声を掛けられる。
「なまえちゃん」
「なんでしょう、景光くん」
「…今後の事について、なんだけど…」
切り出された話題に、自分の醜態はさて置き顔を向ける。
緩く微笑んではいるが、困ったような、申し訳ないような、なんとも言えない表情をした彼は続けて言った。
「なまえちゃんが良ければなんだけど…少しの間、ここにいさせてもらっても構わないかな…?」
問い掛ける形で聞いてはいるものの、その目からはイエス以外の返答を望んでいるようには見えなかった。私が返す答えは限られているのだろう、そうでなくてもそれ以外の答えを返すつもりはなかった。
「景光くんさえ良ければ。期間は気にせずこの家を使ってくださって構いません」
「…それは、有り難いが…」
「生活費の事ならご心配なさらず。豪遊でもしなければ特に問題はありません」
「けど…」
「何もずっとここに引き篭もっておけ、という訳ではないです。外の方が都合良ければしばらくのビジホ代くらいなら問題ありませんしそれの見返りも特には求めません…が納得いかないのであれば在宅時の食事の用意はお願いしたいですね」
「そんな事くらいもちろん、…しかし、」
「景光くんは…私の身を案じてくれて、いるんですよね…?」
「……」
言葉なくとも、初対面ーーと言っていいものなのかどうかはわかりかねるがーーの彼はやはり優しい潜入捜査官で、まさしく警察官なのであろう。自身が不可思議な状況に置かれているにも関わらず、他人である私の心配をしている。もっと非道にこの状況で自分より弱い存在である私を如何様にもする事は出来るだろう。もっとも、そんな人間の場合いくら好きな作品から出てきた人物であったとしても自分からこの様な提案はしない。
恐らく本自体の存在が消えた謎、死んだ筈が異世界であるこの世界で生きている謎…これは本の消失と存分に関わりがありそうではあるが私のただの憶測にしか過ぎない。
謎や懸念事項は他にも山ほどあるだろうが、きっとここを出たとしても彼ーー景光くんに行く宛があるとは思えない。
「ありがとうございます…でも大丈夫ですよ、なんとかなります」
「…なんとか、て」
「景光くんも、今、なんとかなってます、よね?」
「…」
「だから大丈夫です、…多分」
「…強いなぁ、なまえちゃんは」
もちろん、なんとかなる根拠も確証も保証も今のところ何もない。それに、自分自身が異世界に移動した訳ではなくあくまでも私の生活基盤は変わっていないからこそそう思えるのだと思う。
死んだと思ったら突然見知らぬ場所で目覚めた人間に対しては軽すぎる励ましのように聞こえたかもしれないが、しかし思い詰めても事態が良い方向に向かう訳ではないし今ここで落ち込んでいても何の解決にもならないのは確かだろう。決して楽観視して問題をないがしろにしているつもりはないが、どうせ考えるなら楽しい方、だ。
さて、大丈夫と気軽には言ったものの現実としてのこれからの事を考える。
金銭的には彼にも告げた通り余程の散財などしない限り一年…短くても半年は問題ないだろう。もし余裕がなくなりそうならゆるく働ける場所を探せばいい。
同居自体、期間もどうなるかわからないが、その前に本消失の謎とその他諸々についてもわからない。本が消えて、その中にいた筈のスコッチーー景光くんが今ここにいる。じゃあ他の人はどうなったのだろうか。景光くんだけ本の世界から切り離されて、ここに来た?だとしても本が消えた理由は?いや、景光くんがここに来たから、本が消えた?だとしても私は確かに本が存在していた事を記憶しているし、けれど同じくファンだった筈の友人からは存在そのものがなかったものになっている、のだろう。スマホで調べただけで実際は違うかもしれないがあんな国民的作品が検索すら出来ない、というのもあり得ない。
とすると、
「なまえちゃん…?」
「…すみません、ちょっと考え事をしていました」
「…やっぱり、ここにいるのは…」
今の状態、といっても現実的な生活についてではなく、そもそも今のこの状態は?という事に頭を回していると、一時的かもしれないが共同生活に対して考えていると思わせてしまったのだろう、捨てられた仔犬のような表情で言葉を紡がれてしまった。いや、これは仔犬というよりかは、雨に濡れた猫のような。
彼の眼差しから余計な事まで考えてしまい慌てて訂正する。
「っ、違います。それはホントに全く問題ないです!好きなように使ってください!…すみません、考えていたのはその、今の状態について、というか…」
「…ありがとう。今の状態、と言うと…」
「もし…本が存在しているままであれば、景光くんは本からその登場人物が出てきた…いわゆるトリップや異世界転生、いや、転移、の状態になるんだと思うのですが…」
「…なるほど。でもその本自体の存在がなくなっている…」
「はい。でもそう仮定すると、私に本の記憶があるのは何故か?という疑問が生まれますし、そこからは更に仮説になりますが…」
「異世界ではなく、パラレルワールド…?」
「…本の舞台も同じ日本ですし、おおよその背景は変わりはありません」
「おおよそ、と言うと…?」
「実際、というかこちらには存在しなかったり、もじったような地名だったり」
「…例えば?」
「米花町や杯戸町といった地名は私が知る限りでは本の中でだけ、ですね…あ、でもここら辺なんだろうなーていうのはなんとなくありますよ」
本の消失と、似通った、でもどこにもないような地名、それこそがパラレルワールドと仮定するには足りなくもないが、私自身の記憶ではあくまでも物語の中の話である。しかしその物語自体がおそらく今この世から消えてしまったというのであれば私のこの記憶は何なのだろうか?考えても考えても確実な証拠や確証もなく堂々巡りになってしまう。これ以上はしんどくなるだけだ。
「…まぁ、そんな感じなので、ひとまずはゆっくり過ごすのも一案かと」
「意外と強引にまとめたね?」
「…これ以上は私には考えられません」
取り敢えず、これからよろしくお願いします景光くん、と投げかける。
「…こちらこそよろしく、なまえちゃん」
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