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「……ひ、景、光…?」
彼女が戸惑いながらも名前を発した瞬間、何とも言えない安堵感、というのだろうか、ふわりとした感覚が全身を包み込む。
幼き日、かつては両親から、そして兄から呼ばれていた名前。兄と離れ離れになってからは引き取ってくれた親戚からももちろん名前は呼ばれていた。しかしあの頃のオレは事件のショックから失声症になり、聞こえてくる呼び名もどこか他人事のように遠く感じていた…ゼロに、出会うまでは。
話す事の出来ないオレを、ヒロ、と呼び、相槌を打つ事しか出来なかったがたくさん話をしてくれた、幼馴染。目指す志も同じで出来る事なら最後まで隣で戦っていたかったが…最期に、オレを呼ぶ声が、この耳に届く事はなかった。
潜入中に本名で呼ばれる事はもちろんない。本名に代わり呼ばれるようになったのはコードネームーースコッチ。
そう呼ばれる事に耳は幾分か慣れはしたが、しかしそれはオレの名前ではない。名前を呼ばれる事がこんなに温かなものだったのだろうか、未だに戸惑いの表情を浮かべ、ばつが悪そうな彼女に、もう一度、と告げる。
「景光…さん」
「…うん?」
「いや、あの、一応、さすがに呼び捨てっていうのは…」
「…みょうじさんさ、幼馴染に憧れてたって言ってたよな」
「…?はい」
「じゃあ呼んでみてよ…ゼロみたいに」
「……!…っ、ひ、…ヒロ……」
消え入りそうな声で紡ぐ呼び名は心地良かったが、耳まで真っ赤にし顔面を両手で押さえうずくまる彼女を見ると、ほんの少し悪戯心が湧いた。
彼女の隣に腰を下ろし、塞がれていない耳元にそっと近付き声を掛ける。
「聞こえないなぁ…なまえちゃん?」
「?!ッ、近い!し、なんでちゃん付け?!」
「んー?そっちの方が幼馴染っぽくない?なまえちゃん」
「………、人で遊ぶな、ヒロ」
逸らしていた顔をこちらに真正面からオレの名前を真っ直ぐに呼ぶ。もう少し狼狽えるかと思ったものの意外な反応に今度はこちらが目を見開いて止まってしまう。してやったり、という顔でニヤリとこちらを見る彼女に両手を上げ降参の意を表す。
「ごめん、ちょっと調子に乗った」
「…いえ。オムライス、ありがとうございます。食べましょう」
まだ少し赤さが残る耳に髪の毛をかけながら、いただきます、と両手を合わせる。スプーンでひとすくいし口に含むと彼女の目がきらりと光ったような気がした。
「…おいしい!」
「お口に合って良かったよ」
「こんなの口に合わないの卵アレルギーの人くらいじゃないですか?」
「ははっ、ありがとう」
「本当においしい…天才」
「誰、が天才なのかな?」
「…景光さん」
「…」
「……、景光くんが!…これで勘弁してください…」
「りょーかい」
彼女が天才、と言う前に一瞬あった間を逃さずに問うと、まだやるのか、とでもいうようなジト目でこちらを見たが先程のやり取りを痛感したのか諦めたのか敬称を付けて呼んできた。しかし後もう一歩、と思いながら無言で見つめると彼女なりの譲歩出来る範囲であろう呼び方で呼んできたのでこれ以上は悪手だと思い話を区切り、自分もオムライスに手をつける。
新たな友人が出来たかのようで、楽しいディナータイムとなった。
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