3
では、と言いながら小走りする人間は視界の端から消え去っていき、唖然としそのままベッドにしゃがみ込む。
ぐるりと部屋を見渡すと、なんともシンプルな様子だ。窓を横にした今座っているベッドの斜め向かいにテレビ、ガラス製のローテーブルを挟んでコンパクトなローソファー。その隣には本棚が置かれていてきっちりと整理されている。続いて目に入った扉を立ち上がり開けてみる。シンクに冷蔵庫、食器棚、ラックに置かれた電子レンジやトースター。至って普通のキッチンのようだった。そこからふと顔を向ければ更に扉がありそっと中を確認するとこれまた普通の洗面室とバスルームだった。
洗面室の他に階段もあったのでそのまま足を進める。二階は箪笥やマットレスなどが設置されていたがあまり生活している様子を感じ取れない。一階にベッドがある事を考えると客間代わりなのだろうか、家の間取りの割にはつい先程出て行った人物以外の生活する気配を感じず恐らく一人暮らしだと考えられるがとにかく今の自分の置かれている状況が一切不明だ。
手元には破棄したはずの、警察手帳。
潜入が決まると同時に返還・破棄し、自身ではおろか誰も所有していないはずの物だ。何故それがここに?返還はしたが破棄はされていなかったというのだろうか。いや、機密保持の為に潜入捜査官の手帳は原則破棄される事となっている。では何故それがここに…?考えながら各部屋の盗聴器や盗撮機のチェックをしたがそういった類の発見には至らず、警察手帳の存在も謎のまま。
何が何だかわからないまま、一旦元の部屋に戻りソファーに腰掛ける。ふと、ローテーブルにいくつかの食料品や救急箱と、一枚のメモが目に入った。
【救急車も警察も連絡はしていません。
食べ物はご自由に。怪我などがあればこちらを。
鍵はポストへ。みょうじ】
先程急ぎ足で出て行った家主であろう人物と会話した内容と変わりなかった。名前は判明したが、コードネームでもなんでもない、ただの苗字である。
本当に組織の人間ではない…?ではオレの今の状況は…?
考えても何も答えは見付からず、もう一度ローテーブルに視線を向ける。
パック型ゼリー飲料、栄養補給クッキー、スポーツ飲料水。カップ麺にスティック型のパン、小さな箱に入った個包装のチョコレート。
救急箱の中には体温計、湿布、絆創膏、包帯、軟膏薬、パッケージから鈍痛薬であろう錠剤。多少量が多いのが気になったが慢性的な頭痛でもあるのだろうか、他には特に目を引くような物は見当たらなかった。
置かれた食品のラインナップが気になり、もう一度キッチンへと向かい冷蔵庫の中を覗く。
調理するような食材は置かれておらず、見渡す限りは酒、というかビール缶が大半だった。あとはローテーブルの上と同じゼリー飲料やスポーツ飲料水、ミネラルウォーター、炭酸水。ふとシンクに目をやると、四つの薔薇が描かれた、バーボンウイスキー。それが目に入ったところで、やはり彼は組織と何か関係が…?と思うが何の変哲もない部屋に見ず知らずの人間に対してのあまりの危機感のなさ、会社への退職手続き、という言葉を思い出し、恐らく一般人なのだろう。
我々が、オレが、守るべきーー…
しかし何故そんな一般人がオレを…?
そんな事を思いながら再びどうしようもなくソファーに座り込み結論の出ない考えに頭を回らせているとガチャ、とドアが開く音がした。
「…お、おかえり、なさい…?」
「…、ただいま…?」
「…って、ごめん!ずっと居座ってて!もう昼過ぎか?!ごめん、オレ出るよ…!」
「あ、いや、それは別にいいんですけど…身体、大丈夫ですか?何か食べました?」
「は、いや、身体は大丈夫、だと思う…君の食料は奪ってないから安心して」
「いや、自分で出したものなくなってて怒りませんよ。というか…諸伏さん?は出歩いても大丈夫なんですか?なんか、事情がありそうな感じでしたけど…どうせ出るなら夜とかの方が…いや、夜の方が危ないのか…?うーん…?」
「あ、まぁ、夜の方が動きやすい場合もあるが、だからと言ってこのまま居座る訳に、
グゥ…
「…」
「…取り敢えず、何か食べますか…?」
「いやっ、それは申し訳な…ッ
グゥゥゥ…
「退職祝いで、おいしそうなの買い過ぎちゃったんで、一緒に食べてくれませんか?」
「君の退職祝いだろう?オレが食べるのは申し訳ない…」
「テンション上がって買い過ぎちゃって。1人では食べ切れないのでこのままだと腐らして捨てる事になっちゃいますし…一晩のベッドのお礼をしていただければな、と」
「…そう言われちゃあ、断れないな…ありがたくいただくよ」
「じゃあ、先にちょっと着替えてきますね」
思考の渦に巻き込まれていると随分時間が経ったらしく家主が帰ってきた。
早々に家を出る、と告げたものの体調の心配どころか胃袋の心配までされてしまい情けない事に断りの言葉よりも腹の虫の鳴き声の方が大きかったようだ。ベッドを貸した礼をしろ、という気遣いからくるであろう有無を言わせない言葉に降参してひとまずはまだ居座る事が決定した。
オレの警察手帳ーー何故ここにあるかは相変わらず謎だがそれで信用したとしても、本当に危機感というか警戒心がなさすぎではないだろうか。いくら男の一人暮らしとはいえ人に対しての警戒心がなさすぎる気がする。
ローテーブルに置かれた紙袋からは恐らくデパートなどで買ってきたのであろう惣菜類のほのかに残る温かさと胃袋を刺激する香りがする。そっと袋を開き覗いてみると、明らかに一人分の量ではない。二、三人分はあるであろう量に和洋中とレパートリーは様々で、一緒に置かれていたビニール袋にはうどんとパウチのお粥が入っている。
着替えに行くと言った際、おなかぺこぺこ〜とひとりごとのように呟きながら浴室へと向かって行った彼の体調が悪いようには見えないし、これだけの惣菜類を買ってきているのだからうどんやお粥はもしかしたら自分用にではなくーー。
そんな事を考えていると、ラフなスウェット姿になり戻ってきた。
「すみません、自分だけ着替えちゃって…諸伏さんもシャワー浴びます?着替えは兄が置いて行った物があるので多分着られるかと思うのですが…」
「いや、そこまで迷惑はかけられないよ。それに君、お腹空いてるんだろう?温かい内に食べた方がいい」
「…そうですか?なら先に腹ごしらえとしましょうか」
「退職おめでとう、でいいのかな?」
「はい…!やっとですから…!これでしばらくはフリーダムです…!あ…諸伏さんお腹の調子はいかがですか?一応色々買ってきたんですけど、うどんとかお粥の方が良ければ、」
しみじみ、というような表情を見せながら、は、とオレを気遣うような表情に変わり体調を気遣う台詞を向けてきた。
「やっぱりこっちの袋、オレに買ってきてくれてたんだな…」
「あ、いや、食え、とは言いましたけど、病み上がり?の人間に味が濃い物もどうかなぁ、と思いまして…」
「…君は、いつもこんな事をしているのか?」
「…?いや、人を担いだのは初めてですしそんな怪しげな人を家にあげるげるのも初めてですが…よく酔っ払った友達の介抱はしてましたけど」
救急にも警察にも連絡するなと言う怪しげな人間への対応の仕方に、もしや組織関係の仕事としてこういった事をしているのか、はたまた人が良いのが過ぎるのか質問してみたところ、返ってきたのは恐らく後者であろう回答と表情。
「…そうか、いや、変な事を聞いて悪かった。食事にしようか。オレの体調に問題はない。お腹ぺこぺこ、なんだ」
「ですよね…!すみません、ちょっとトラブっちゃってもう夕方ですし…」
「うん?」
夕方。
オレの聞き間違いでなければ彼は今の時刻を夕方だと告げた。いくら考え込んでいたとしてもそれ程の時間が経っていたというのだろうか。自分が眠った自覚はなかったし、家を捜索した時間を考えたとしてもそこまで時間が経っているとは考えられなかった。恐る恐る、でも努めて冷静に今の時刻を訊ねると、四時半です、と返ってきた。ベッド側のカーテンを少し開くと、確かに冬の夕暮れ時に相応しい薄暗闇だった。
体感時間と実際の時間の進み具合の差異に頭を抱えそうになるのを堪え、長居しちゃったな、と言いながらカーテンを閉じ向き直る。
早速食事の準備をしていたのか手には冷蔵庫から出したであろうビール缶が二缶握られていた。
「諸伏さんも飲みます?」
「…いや、遠慮しておくよ…」
「そうですか?なら一人で飲んでも構いません?」
「…君は…本当に危機感というか警戒心がないのか…?いくら男同士とはいえ君から見れば不審者でしかない人間の前で酒まで飲むのは…」
「……あー…いや、そこまで弱くはない自覚はありますしそれに、」
「いや、まぁいい…オレの事は気にせずに飲んでくれ」
「…そうですか、では遠慮なく」
その言葉で始まった退職祝いという名の食事会。彼が選んできた惣菜はどれも美味しく、久し振りにこんなに美味しいと感じられる食事をした、と思えた。彼は食事に手をつけながらも空き缶が増えるスピードの方が早く、冷蔵庫があるキッチンへ向かう頻度も比例して上がっていった。
「君、飲み過ぎじゃないか…?大丈夫か…?」
「これくらい通常運転です。それより諸伏さんもちょっとだけ飲みません?やっぱ1人だけ飲むのはつまんなくって〜」
見る限り顔面の紅潮などはなく、おそらくほろ酔い状態であるようにも見えるし食事にも酒にも毒などは仕込まれていないように見受けられる。かといって冷蔵庫へ取りに向かいこちらへ戻るまでのその一瞬で何か仕込まれるかもしれない、と染み付いた僅かな危機感を拭えず、食事はほとんどなくなってきているのでこの後手をつけなくとも違和感はないだろうと考え、じゃあ一杯だけ、と自ら冷蔵庫へと向かう。
冷蔵庫内や周りに薬物などの不審な物は見当たらず、変化といえば冷蔵庫内のビール缶だけが最初に確認した時よりだいぶ減っている事だけだった。二缶取り出し、部屋へと戻る。
「じゃあ、いただきます」
「やったー!諸伏さん乾杯〜!退職おめでとう〜!」
「ははっ、退職おめでとうは君だろう」
なんて笑いながら彼の退職祝いに付き合っていると、いつの間にか酒が進んでいたようだ。
一緒に乾杯をし始めてからはより饒舌になったようで、今までの職場での苦労をたくさん披露していた。しかし最後には、でももう辞めたもんね〜!グッバイ糞ブラック会社〜!と楽しそうに笑っていた。そんな彼の笑顔に釣られ幾分か飲んだ頃、彼の頭がゆっくりと船を漕ぎ出した。
「君、眠いならベッドに行った方が…」
「ん〜眠くはないですけど〜座るのに疲れたかもしれないすね〜」
「それを世間一般的には酔っていると言うらしいぞ」
「あははっ!自宅で酔っ払い!ウケる!」
「楽しいのなら良いが、少し飲み過ぎじゃないか…?」
「ん〜いつもはこれくらいで酔わないですよ〜諸伏さんとお話ししてるから、かなぁ…諸伏さんって声めちゃくちゃセクシーですよねぇ…」
転がるビール缶の数の分だけ確実に酔っているであろう彼の肝臓と船を漕いでいる頭が心配になり声をかけると突然のセクシー発言。見た目から推測されるより酔っていたのだろうか、発した本人はそのまま気持ちよさそうにソファーに横たわってしまった。さてどうしたものか、と思考しながら残っていた缶の中身を仰ぐ。ローテーブルに肩肘をつきスヤスヤと眠る彼の顔を眺めてみる。中性的な顔立ちだとは思っていたが、眠っていると少し幼く、また可愛らしくも見える。
しばらく眺めてみたものの、このままソファーで寝入ってしまっては辛いだろうと身体に手を差し入れて持ち上げベッドへと移動させる。細身である見た目通りの軽さに多少の心配を覚えつつ、いつの間にかベッドの端に自身の頭を乗せ、アルコール由来なのだろうか不明だらけの今の状況に対しての不安感からなのだろうかどちらかはわからぬ睡魔に誘われるままに目を閉じていた。
top