一般って何処のこと?

「ああ、大きくなって随分綺麗になったね」

うっとりとした顔で私の頬を撫でる目の前の男に全身が危険だと告げていた。突き飛ばしてしまえばいいのに、その顔面に一発拳をぶち込んでしまえばいいのに、それが出来ない。

「先生!」
「ああ、君か。頼んでいたことは何一つできてないようだね」
「ちがっ、違うんです!待って…!ちゃんと、ちゃんとやります!だから…!」
「もういいよ。これから君にできることなんて何一つ無いから」

私を見つめていた瞳が突然鋭さを増して、冷たい声が彼女の表情を曇らせた。やっぱり予想通りだった。彼女は自分が生き返ることを条件に何かを頼まれていた。そしてそれは全て失敗に終わった。その状況でこの男が出てきたということは彼女に頼んでいたことを己の手で行うつもりだという可能性が高い。

「だれ、ですか?」
「覚えていないのかい?君も小さい時は僕のことを先生と呼んで慕ってくれていただろう?」
「私、知り合いに貴方みたいな人いないんですけど」
「それならこれから僕との思い出を作り直せばいいだけだね。大丈夫だよ、僕と一緒に少しづつ思い出していけばいいんだから」

一体、何なんだ。この話の通じない男は。

このままじゃダメだと本能で思った。パシリと男の手を振り払って立ち上がる。どうしたの、と私を見上げてくる男にぞわりと背筋を冷たいものが流れる。じっと私を見る目が、怖い。

「俺の連れに何か?」
「っ、ふるはし…」
「大丈夫か?」
「へい、き…」

ふわりと香った古橋の香りに靄がかかっていた頭がクリアになる。歪んだ好意が向けられることに恐怖しているのかと思っていたが、そうじゃない。少し冷静になった頭で考えて、思い当たることが一つだけある。私が小さい時に母に付き添って行った病院で出会った一人の医師。

私が母の付き添いで病院に行くと必ず話しかけてきた医師がいた。目の前の男と同じように私を初対面の時から名前で呼んでいたのを覚えてる。そして、その男と仲良くなって数か月が経った私の卒園式の日。母が車に轢かれて亡くなった。車を運転していた男は睡眠薬と同じ成分が入った薬を運転前に服用しており、母は運悪くその男の運転する車に轢かれた。

そしてその数日後、大量の睡眠薬を飲んで父が自殺をした。一人になった私を医師の男がやたらと気にかけていたけれど、子供の頃の私は両親が亡くなったショックでそれどころじゃなかったんだ。暗闇で手を伸ばしてくれたその医師に私は泣きついて、その医師は私を慰めてくれた。それからあっという間に私は親戚に引き取られてその医師とはずっと会っていなかった。

「まさか…あの時の…?」
「そうだよ。迎えに来たんだ。あの時僕が君を引き取ると言ったのにあの親戚共が邪魔してきてね。

君が親戚に引き取られて僕の目の前から消えたあの日から、僕はずっと君を探してたんだ。

そして、君を見つけたんだ。霧崎第一高校の制服に身を包んだ君を見て、すぐに葉月だって気づいたよ。

でも、僕はショックを受けたんだ。あんなに綺麗で可愛らしくて、純粋な真っ直ぐな瞳で僕を先生と呼んでくれていた君が、こんな、人間のクズみたいな奴らと一緒にいるから。

どうにかして君をそいつらから引き剝がして、僕の側に置いておかないと君が汚れてしまうって確信したんだよ」

突然、鮮明に思い出したあの時の出来事。ぽつりと呟いた私の小さな声にぱあっと子供のように表情を輝かせた男はまるで物語を語るように話し出す。私の都合も、私の気持ちも、何一つ考えていない無邪気な言葉。この男は本気で、ただ純粋に私を好いている。

「…とりあえず色々言いたいことはあるけどさあ、きっしょいよね」
「俺たちの言われようもやべーよな。人間のクズだってよ」
「まあ間違ってないじゃん。特に花宮と原」
「なんで俺もなんだよ。原だけだろ」
「いや待ってお花が断トツでナンバーワンだからね?」

気持ちが悪いと、本気でそう思った私の気持ちを代弁するかのように原が口火を切る。相変わらず緊張感の欠片もなければ一切私を心配するような素振りの無い姿に逆に安心した。先程まで強張っていた体からは力が抜けて思わず笑みが零れた。

「ふは、私も含めて全員クズでしょ」
「いや俺はぜってーお前らよりマシだかんな」
「そうは言ってもザキも十分クズだと思うが」
「一般と比べたらだろ、それ」
「一般って何処のこと?」

今まで向けられたことの無い感情だったから恐怖心が芽生えただけだ。別に怯える必要もまともに相手をする理由もない。私は今の自分が大好きだし、今の生活が気に入っている。この男の思い通りに事を進めるなんて絶対にしてやらない。4階を探索した時に見つけた紙の通りなら私が負の感情に飲まれない限り、この男は私を自分の側に置くことはできない。

「悪いけど、私もアンタの嫌いな人間のクズなんだよね」

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