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「夢でも見てたのかもしれない」
「まだ言うか」

あの日から1週間。未だにあの日の出来事を夢だと思ってる私に親友が呆れたように言う。意識していなかっただけで彼とは被っている授業が多かったらしく、私に声をかけてくれるようになった。

彼が大学内で女の子と話しているところをあまり見かけないがために自分が特別なのかと錯覚を起こしそうになる。その度に夢だ夢だと言っているもんだから彼女からすれば聞き飽きたセリフだろう。

「でも、まあ確かについこの間まで手の届かない人だったのに突然会話するようになったら夢だと思うよねえ」
「そう思うでしょ!?いつもあんな綺麗な顔で声かけられるこっちの身になってよぉ…」
「付き合ったらもっと距離縮まるんだから、今からそんなんでどうするの」
「つきっ…!付き合うとか、そ、そういうのじゃないから!変なこと言わないでよ!」
「だって好きなんでしょ?じゃあそういう事じゃん」
「す、きだけど!それとこれとは別っていうか…なんて言うか…」
「なに?付き合いたくないの?」
「そ、れは…」

彼女の言葉に反論する私の顔はきっと真っ赤になっている。確かに彼を好きどうかと聞かれれば好きだと答える。けれどそれがイコール付き合いたいとかそういう感情かと言われればまだわからない。確かに初めは舞台の上でキラキラと輝く彼に惹かれて、好きだ好きだと言っていた。けれど実際に話をしてみれば至って普通の大学生だった。

それはもちろん悪い意味ではなく、良い意味でだ。気取っている様子もないし、好青年という言葉がピタリと当てはまるような男の人だった。そんな彼と話す度にドキドキするのも、姿を見て胸が高鳴るのも全て私が彼のファンだからだと思っていた。でも、付き合いたくないの?という彼女の言葉にすぐに頷くことが出来なかったのは、つまり、そういうこと…なのだろうか。

「分かんないよぉ…」
「あれ、名字さん?」
「え、あっ、皆木さん!?」
「偶然っすね」
「あ、えと、そうですね!」
「ぷっ、くく…っ」
「ちょっと!」
「あ、お友達も一緒だったんすね」
「どーも、名前の親友でーす」

はあ、とため息をついて机に突っ伏す。ぐるぐる回る頭を冷やそうと必死になっていると後ろから最近聞き慣れた声が飛んでくる。慌てて上体を起こして後ろを振り向けば彼がキョトンとした顔で立っていた。ああああ…今の変な動き見られた…。返事に吃る私を見て必死に笑いを堪えるけど堪えきれてない彼女の笑い声にジトリと視線を向ける。

ヘラリと笑って自己紹介をする彼女をこの時ばかりは羨ましいと思ってしまった。彼女より私の方が彼と話をしている回数は多いはずなのに、私が未だに呼ぶことの出来ない彼の名前を彼女は軽々と呼んだ。私の表情に気づいたのか、彼女が私を見て一瞬目を丸くする。その直後、ニヤリと笑った彼女に嫌な予感がした。このまま彼女に喋らせるとまずいと直感的に思ったが遅かった。

「名前さ、同い年で同じ学年なのにさん付けで呼んでるんでしょ?」
「えっ…そ、そうだけど…」
「最近、仲良いみたいだし普通に名前で呼んだらいいんじゃない?」
「は、はあ!?な、何言って…!」
「綴くんも、名前のこと名前で呼びなよ。名字なんて名字いっぱいいるし?」
「そんなことないでしょ…」

嫌な予感は的中だった。他の人からしたら大したことないのかもしれないけれど、私からすればとんでもなく高いハードルだ。しかも私だけじゃなく、彼まで巻き込むなんてなんてことをしてくれたんだ。恐る恐る彼の顔を見てみれば、少し頬を赤くして困ったような顔でこちらを見ていて、バチリと合った視線から逃げるように目を逸らす。

顔に熱が集まっているのが分かって、彼から逸らした視線を足元に落とす。こんな真っ赤な顔じゃ、尚更顔を上げることなんてできない。この微妙な、何とも言えない空気を作った張本人に何とかしろ、という思いを込めて視線を送るが当の本人は素知らぬ顔でスマホをいじっている。私が声を上げなければ始まらない、と覚悟を決めて口を開こうとした時、彼の声が耳に入ってきた。

「名前さん、って呼んでもいいっすか?」
「へっ、え、っあ、はい!」
「俺のことも名前で呼んでいいんで」
「あ、えっと、はい…。綴、さん…」
「あ、はは…。なんか改めて名前で呼ばれると照れるっすね」
「そ、そうですね…!」

彼の口から出た私の名前に思わず変な声が出る。まさか、こんな提案に乗っかってくるなんて思っていなかった。最初こそ、この提案をした彼女を最悪だと思っていたが今はむしろ感謝の気持ちでいっぱいだ。だって、あの彼が、私の名前を呼んでくれたのだから。

もちろん、その代わりに私も彼のことを名前で呼ばなければならないという最難関ミッションを与えられてしまったのだが。照れたように笑って、頬をかく彼を直視出来なくて少し目線を落として返事をする。私の少し後ろに立っている彼女にチラリと視線を向ければニンマリと笑った後、顎で彼を指し示した。

「次の授業、一緒っすよね?」
「は、はい…!」
「もしよかったら一緒に行きません?」
「お、お願いします…!」

彼に目線を戻すと、相も変わらず照れたような顔をしていて。そんな顔で受けたお誘いを断ることなんて当然のながらできない。勇気を出して真っ赤になっているであろう顔を上げ、返事をする。私の返事に嬉しそうに笑った彼に少し、本当に少しだけ、期待してしまいそうになった。

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