記憶に溺れる

「えっ、と…君は…?」

目を覚ました彼が最初に発した言葉はそれだった。

敵と戦って頭を強く打ち付けた彼はどうやら記憶を失ってしまったらしい。もう一回ぶん殴れば治るんじゃねーの、なんて言ったルフィやゾロに声を荒らげたのは記憶に新しい。

記憶をなくして一番戸惑っているのは彼で、そんな彼に負担をかけたくなかった私は何も言わないことを選んだ。私が彼の恋人であることも、私が彼に恋をしていることも。

きっと、今の彼は彼は自分の置かれた状況を理解するのに必死だから。

「本当に、いいの?」
「平気。記憶があったってなくたって、私がサンジくんを嫌いにならことなんてないもん」
「そう。名前がそれでいいって言うなら私は何も言わないわ」
「…うん。ありがとう、ナミ」

ルフィ達とわいわい騒ぐ彼はいつもの彼より少し幼く見えて、でもきっと年相応と言えばそうなのかもしれない。

楽しそうに笑う彼をぼんやりと眺めていれば隣に立っていたナミが口を開く。心配そうな顔をしている彼女に笑って返せば、彼女は一瞬だけ眉を顰めてから私の頭をポンと一度だけ撫でた。

上手く、笑えてなかったのかな。だから、ナミにあんな顔させちゃったのかな。自分の頬に手を当ててむにむにと上下に動かしてみる。

思うだけなら簡単だった。彼の記憶が戻るまでは、彼の記憶に押しかけない。でも、実際口にするのも行動にするのも辛かった。彼の瞳に映る私は、私であって私じゃなかったから。

「…なんつー顔してんだよ」
「ゾロ…」
「そんなに辛いなら言えばいいだろ」
「…そんなに分かりやすい顔してるのかな、私。さっきナミにも同じような顔されちゃった」

あ、なんだか泣きそう。

そう思いながらサンジくんをぼんやり眺めていれば後ろから頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。振り返れば立っていたのはゾロで、さっきのナミと同じように眉を顰めていた。

口から零れた乾いた笑いに彼はため息をついて私の隣に座り込む。目を閉じて何も言わない彼に甘えた私の口からポロポロと本音が溢れ出す。

本当は、思い出して欲しい。いつもの笑顔で私の名前を呼んで欲しい。ぎゅって抱きしめて欲しいし、キスだってして欲しい。隣に立っていて欲しいし、その目に私を映して欲しい。サンジくんの中で、いつだって一番の女の子でいたい。

でも、彼を困らせるのはもっと嫌。苦しくて、寂しくて、でも心配はかけたくなくて。

「もう、どうしたらいいのか、分かんないの…」

ゾロの隣にしゃがみこんで膝を抱える。ポタ、ポタ、と落ちた涙が地面に落ちて消えていく。

はぁ、とため息をついたゾロが何も言わずに、また私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。乱暴な手付きだけど、何だかホッとしてしまって涙が溢れた。一度弱音を吐き出せば心はスッと軽くなって、自然と笑えるようになった。

ルフィ達と一緒に笑う私にゾロもナミも少しだけ安心したような顔をしていたから、きっと前よりずっとマシになっているのかもしれない。

「っ、こんな時に…!ルフィ!」
「おう!任せろ!」
「サンジくんはこっち!」

サンジくんの記憶が戻ってない状態では避けたかった敵船との戦闘。

けれど、敵船にはこちらの都合なんて関係ない。撃ち込まれた砲弾が船のすぐ横に落ちて、船が大きく揺れる。すぐにルフィやゾロが戦闘態勢を取って、戦い始める。

戦い方を覚えているのかどうか分からないサンジくんを前線に出すのは危険だと判断して腕を引く。戸惑うように後ろを着いてきた彼は、敵船との戦闘そのものに混乱している。

「ルフィ達は何してんのよ!」
「うおおお!?こっちに来てんぞ!?」
「ちょっとウソップ!逃げてないで何とかしなさいよ!」
「俺だけかよ!?お前も戦え!」

敵船から乗り込んできた海賊達に思わず舌を打ってしまう。ナミやウソップ達も戦う中で、私だけが引き篭ってる訳にはいかない。

護身用に、とサンジくんに小型の銃を渡して船室から飛び出す。絶対に部屋から出ないで、と念は押したけれど彼は言うことを聞いてくれるだろうか。ほんの少しだけ不安に思いながら襲いかかってくる敵を倒していく。

「っ、!危ない!」

ナミが叫んだその声にハッとして振り返る。頭上に振り上げられた拳がまっすぐに私に向かって振り下ろされる。

ダメだ、避けきれない。

少し遠くから聞こえる私の名前を叫ぶ皆の声。ギュッと目を瞑って衝撃に備えた瞬間、大きな音と共に大好きな彼の声が聞こえた。

「誰の許可取って、俺の彼女に手出してんだテメェ」
「サンジぃぃぃいい!!」
「記憶戻ったのか!?」
「おー、お陰様でな。迷惑掛けたな、お前ら」

安堵で体の力が抜けてふらりと甲板に座り込む。

ギロリと敵の海賊達を睨みつけた彼に皆が歓声を上げる。ニヤリと口角を上げて笑った彼が皆に片手を上げてお礼を言いながら襲いかかってくる敵を蹴り倒していく。

あっという間に敵は全滅し、覚えてろよ!なんて在り来りな捨て台詞を吐いて海賊達は逃げていった。

「大丈夫かい?怪我は?」
「だ、いじょうぶ…」
「そっか、よかった」

ペタリと座り込んだままの私の前にしゃがみ込んで首を傾げたサンジくんに何とか返事をすれば、彼がふわりと笑う。

皆が記憶の戻ったサンジくんにわあわあと絡む中で、私だけがぼうっと彼を見つめていて。私の様子がおかしい事に皆が気付いて、私に視線が集まる。

「おーい、大丈夫かー?」

ピクリとも動かない私にヒラヒラと手を振るルフィをナミとウソップが引き剥がす。キョトンとした顔で私を見るサンジくんを仏頂面のゾロが思い切り突き飛ばす。

「ンにすんだよ!マリモ!」
「テメェらの問題に俺を巻き込むんじゃねぇよ」
「ハァ!?何の話だよ!」

そんなゾロの行動にサンジくんが声を荒らげないはずが無くて、案の定ゾロに向かって彼が吠える。いつもならそれに対抗してくるゾロだけど、今回ばかりは言い返すことなく私を見て静かな声で返事をする。

意味が分からないと吠えたサンジくんだったけれど、ゾロの視線の先が私であることに気付いて口を止める。皆が様子を伺うようにこちらを見つめる中で、サンジくんがもう一度私の前にしゃがみ込んだ。

「おもい、だしたの?」
「あ、あぁ。お陰様で。迷惑かけてごめんね」
「ほんとに、ぜんぶおもいだした?わたしのことも、おもいだした?」
「勿論さ。世界で一番大事な可愛い可愛い俺のお姫様、だろ?」
「ふぇ…っ、さ、んじっ、くっ…、うわああぁぁああん!」

震える声で紡いだ言葉にサンジくんが頷く。

私の頭を撫でる優しい手も、私の名前を呼ぶ優しい声も、私を見る綺麗な青色の瞳も。

全部、全部、私の大好きなサンジくんで、ぼろぼろと涙が溢れ出す。

サンジくんに抱きついて声を上げて泣きじゃくる私に、サンジくんは一瞬だけ戸惑ってからふわりと私を抱きしめた。

「ごめんね。寂しい思い、させたよな」
「ば、かぁ…!さんじ、くんっ、のっ、ばかあ…!」
「うん。ごめんね、もう絶対忘れないから」
「ふえっ…っ、ば、かぁ…!ふっ、うえ…っ、」

ポンポンと背中を撫でる優しい手と、耳に響く優しい声に涙が止まらない。

よかった、記憶が戻ってよかった。私の大好きなサンジくんが、帰ってきてくれてよかった。

嬉しい気持ちが溢れて止まらなくて、わんわん声を上げて泣く私を彼はずっと抱きしめていてくれた。

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