おはようのキスも、おやすみのキスも。
いつだって彼とのキスは甘くて優しくて幸せだったのに。雨と涙に濡れた最後のキスは、苦くて苦しくて辛くて。
「ねぇ、行かないで」
そう呟いた私に彼は顔を歪めてごめんな、と囁いた。
暗転した視界と暗くて深い所に沈んでいく私の体。伸ばした手が空を切って。
ハッと目覚めて起き上がる。びっしょりとかいた汗が着ていた衣服を肌に張り付かせていて気持ちが悪い。
そっとベッドから降りて部屋を出る。ひんやりと冷たい風が頬を撫でて、ほんの一瞬だけ心地良さを感じる。が、すぐに襲いかかった寒気に思わず自分の体を抱きしめるように腕を交差させた。
慌てて飛び出してきたせいで足元は裸足。今から靴を取りに戻るのも気が引けてしまって、ぺたりぺたりと綺麗な芝生の上を歩く。
月明かりに照らされてキラキラと光る水面をぼんやりと眺める。波が寄せては引いて、船に当たって白く泡立つ。さっきの夢が、何度も頭の中で繰り返されて視界が揺れる。
「っは、っ…はっ…」
荒くなる息を押し殺そうとしゃがみ込む。
ゆっくり吸って、吐いて。何度も繰り返しているつもりなのに、上手くいかない。苦しい。嫌だ。頭が、痛い。何で。誰か。
ぐるぐると頭の中を回る言葉は支離滅裂で。自分でもどうしたいのか、何をしたいのか分からない。カタカタと体が震えて、寒さからなのかカチカチと歯が合わさっては音を立てる。
ぼんやりと頭に靄がかかったようになって、視界がぐらついて安定しない。ふらりと傾いた体を支えるように右手をついて左手で口を塞ぐ。
「ふ…っ、ぅっ…ふ、」
苦しさから涙が滲んでぽたりと落ちる。
苦しくて、掻きむしるようにして握りしめた右手がぴりぴりと痛む。ぎゅっと目を瞑って小さな声で彼の名前を呼んだ時だった。
背後から聞こえた私の名前を呼ぶ彼の声。ふっと体から力が抜けて、座り込んだままぼんやり彼に視線を向ける。
「なにして…っ、泣いてる、のかい?」
「さん、じく…っけほ、っ」
目を見開いてこちらを見る彼に返事をしようと口を開く。ひゅっ、と喉の奥で音が鳴って胸が苦しくなる。
息が出来なくて、胸を抑えれば慌てて駆け寄ってきた彼の逞しい腕に支えられる。そのまま私を抱き上げようとした彼に嫌だと首を横に降ればどうして、と彼が戸惑ったように眉を下げる。
「や、やだ…っ、いかな、っ…いでっ…おいてっ、か、ないで…っや、だよ…、はなっ、れたく…っない、よ…っ」
ひゅうひゅうと音を立てる喉の奥が痛くて苦しくて。
それでも彼と離れたくなくて、彼に縋り付く。
お願い、どこにも行かないで。離れたくないの。
「大丈夫だよ。俺はずっと一緒だよ。大丈夫、大丈夫だよ。置いていかない。大丈夫だよ」
ぼろぼろと涙を零して縋り付く私を彼が優しく抱き上げる。胡座をかいて座った彼の足の上に横抱きにされるような形で抱き上げられて頭を撫でられる。
あったかくて、優しくて、安心する。大丈夫だと何度も頭を撫でられて、何度も額にキスが落とされる。
「怖い夢でも見たのかい?」
「さんじ、っくんが…っ、いなくなって、っ…」
「なら、夢の中のソイツは本当の俺じゃねぇな。本当の俺ならこんな可愛い彼女、置いていなくなったりしねぇよ。大丈夫、大丈夫だよ」
私の顔を覗き込んで額を合わせた彼が優しく問いかけるから震える声で答えれば、彼はクスクスと笑って私に口付けた。
もう一度抱きしめられて背中を優しく撫でられて、冷えきっていた体が少しずつ暖かくなる。
「今日は一緒に寝ようか。怖い夢を見ても、俺が蹴り飛ばしてあげるから。な?」
とんとん、と規則的に背中を叩かれてゆるりゆるりと眠気が押し寄せる。気付けば整っていた呼吸と暖まっていた体は既に眠りに落ちる一歩手前で。優しい彼の申し出に頷いて首に腕を回せばふわりと体が抱き上げられる。
「おやすみ、マイレディ。良い夢を」
額に落とされたキスと、優しい彼の声を聞きながらとぷりと沈んだ暗闇は暖かかった。
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