大丈夫かと声をかけてくれた二人から逃げるようにその場を離れ、ふらふらと家路を歩く。一人で暮らすには広すぎる2LDKのマンションの扉を開けて、着替えもせずにまっすぐソファへと寝転び息を吐いた。
痴漢に遭うなんて勿論初めての経験で、気持ちが悪い。張り付くような不快感を洗い流してしまおうと浴室へ足を向ける。頭からお湯を被って、嫌なことや苦しいことを洗い流すのは私にとってはいつもの事だ。
幼い頃に両親を亡くして、親戚が身元引受人になった日からもう何年も経った。親戚にとって私は嫌いな奴が残していった厄介者。多少なりとも血の繋がりがある以上、幼い私をその辺に放っておくのは外聞が悪くなると思ったのだろう。
一応、形式的に引き取り当たり障りなく育てられた私にとってホッと息をつけるのは浴室とベッドの中だけだった。とは言っても長い時間浴室を使うことを彼らはよく思っていなかったし、自室でゆっくりする事なんてなかったから、それもこれも本当かどうか、自分でも怪しいくらいだ。
そうして私は、高校進学と同時に半ば強制的に家を追い出された。生活する上で困らないだけの金はやるから迷惑をかけずに一人で暮らせと暗に告げた彼らの言う通り、私はこの2LDKのファミリー向けマンションに住んでいる。
「やさし、かったなぁ…」
ぽつり、小さく呟いた声にハッとした。今、私なんて言った?助けてくれた彼らが私に向けていたのは純粋な優しさだった。
見知らぬ男に無遠慮に触れられて恐怖に怯える私を、面倒だと思わずに助けてくれた。庇ってくれた、優しく声をかけてくれた。遠慮がちに触れられた肩や手は暖かくて、不快感なんてこれっぽっちもなかった。
誰かから無条件で何かを与えられることに慣れていないからこそ、彼らの優しさは胸に染みた。それでも、私にとって彼らはたかだか一度会っただけ、偶然助けてもらっただけ、たまたまあの場に居合わせただけ。それだけの話だ。
それなのに、あの優しい目が忘れられない。ざわざわと心が騒いで彼らに会わなければならないと訴えかけてくるような気さえしている。
もう一度だけ。お礼という名目であれば許されるだろうか。もう一度、彼らに会いたいと望む心さえも流すように流れていくシャワーに目を閉じた。
不快感はもう、どこにも無い。