大学の食堂で起こした私の恥ずかしい嫉妬事件から、萩原さんが私に甘くなった。元々甘かったけれど、比じゃないくらいに甘い。そして、スキンシップが多くなった。頭を撫でられたり抱き締められたりは日常茶飯事だ。驚きはしたけれど、嫌ではない。むしろ嬉しくてそわそわしてしまう。まだちょっぴり慣れなくてぎこちない態度を取ってしまう私を見て萩原さんは、ゆっくり慣れればいいよ、と笑って頭を撫でてくれた。
「ふふ、」
嬉しくて頬が緩んでしまう。憂鬱なだけだった夏休みは萩原さんと松田さんのお陰で楽しくてしょうがない。一人だけど独りじゃない。一緒にいてくれる誰かがいる事が、こんなに嬉しくて心強いなんて知らなかった。今日も今日とて二人と一緒にお昼ご飯を食べて、気を付けて帰るんだよと見送られて帰ってきた。二人は今日もアルバイトがあるんだって。
明日はアルバイトあるかな、お休みかな、なんて思いながらアパートまで辿り着いて、先程までの楽しい気持ちが一瞬で覆い隠される。部屋の窓が少し開いていて、そこから聞こえてくる怒鳴り声。今は帰らない方が良さそうだと判断して、来た道を戻る。アパートから少し離れた公園のブランコに腰掛けて小さく漕いだ。
きい、きい、と音を立てるブランコに乗ってぼんやりと空を見る。薄らと赤みを帯びてはいるものの、まだ青い空は私がここで潰す時間が長いことを物語っていてため息が出た。でも、鉢合わせなくて良かったと思うべきだろう。さっきの怒鳴り声から察するにあの人の機嫌はすこぶる悪い。そんな状態のあの人とは出来れば会いたくない。
きい、きい、とブランコを漕いでぼんやりしていれば、ポケットの中のスマホが音を立てる。画面には萩原さんからのメッセージ。もうそんなに時間が経ってたのか、と驚きながらメッセージアプリを開けば『バイト終わったよ』の文字。たったそれだけの言葉にぽろ、と涙が零れた。なんで泣いているのかなんて分からない。でも涙が溢れて止まらなくて、萩原さんに会いたくなった。
でも、こんな時間に会いたいなんて迷惑に決まってる。そんなこと、言えるわけない。会いたい、と途中まで打っていた文字を消してお疲れ様です、と打ち直す。送信ボタンを押そうとした指は、萩原さんからのメッセージを見て止まった。『何かあった?』『俺の気のせいだったらごめんね』ぽこ、ぽこ、と送られてくる吹き出しが、画面がぼやけて見えない。
スマホの画面に落ちる雫は、間違いなく私の瞳から溢れ出した涙だ。どうして気付いてくれるの、どうして気付いてしまうの。ぐしゃぐしゃになった心のまま溢れ出る涙を拭っていればスマホが震え出す。反射的に応答ボタンを押して耳に当てれば聞こえてくるのは優しい声。
「咲桜ちゃん?何かあった?大丈夫?」
「へい、き…っ、へいきだから、だいっ、じょうぶ、だからっ、」
「うん。咲桜ちゃんは強い子だもんね。知ってるよ。ねえ、今どこにいるの?俺、今一人で寂しくてさ。一緒にいて欲しいんだけど、だめかな?」
お願い、と続けられた言葉に今度こそ嗚咽が零れた。泣きじゃくりながら公園の場所を伝えれば萩原さんは電話を繋いだまま公園まで来てくれた。涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、悲しげに眉を下げた萩原さんはそっと私を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫。俺が一緒にいるからね、大丈夫だよ」
「ひっ、うえっ、はぎっわら、さ…っ、」
「うん。大丈夫だよ、ここにいるから。大丈夫」
何度も、何度も大丈夫と呟いて私の背中を撫でてくれる萩原さんに縋り付いて泣きじゃくる。わんわんと声を上げて泣く私を、彼はずっと抱きしめていてくれた。暖かくて、優しくて、この温もりを失ったらどうしようと怖くなった。
「はぎわらさっ、はぎっわらさぁぁ、ふ、ぇっ、ぅ、」
「咲桜ちゃんの大好きな研二くんだよ。大丈夫、一緒にいるからね。大丈夫だよ」
ぎゅうっとしがみついて離れたくないと子供のように泣きじゃくった私を、萩原さんは自分の家まで連れてきてくれた。すんすん、と鼻を鳴らす私にコンビニで買った新しい下着とTシャツとハーフパンツを渡してゆっくり入ってきな、とシャワーまで貸してくれた萩原さんには頭が上がらない。
思い切り声を上げて泣いたことで幾分かスッキリしたが、それと同時に自分の犯した失態に顔から火が出そうだ。高校一年生にもなって一人にしないで一緒にいたい離れたくないと喚いてギャン泣きなんて最悪だ。私が萩原さんの立場だったら面倒なことこの上ない。正直やめて欲しい。
シャワーを頭から被って、先程までとは全く異なる意味で溢れそうになる涙を洗い流す。萩原さんの匂いのするふわふわのバスタオルで体を拭いて、萩原さんの匂いのするTシャツを着る。ホッと安堵の息が零れて頬が緩む。安心する匂いだった。
そろそろと洗面所から顔を出せば、キッチンにいた萩原さんと目が合った。びくりと肩を跳ねさせた私を見てクスクス笑った彼はおいで、と手招きをする。そうっと近付いて、彼に腕を引かれるままラグの上に腰を下ろした。
「お、おかえり?」
「…た、だいま」
「ココア飲める?」
「…のめる」
「はい、どうぞ」
「…ありがと」
「どういたしまして。髪の毛、乾かしてあげよっか」
「…いいの?」
「いいよ。ちょっと待っててね、ドライヤー持ってくるから」
ココアが入ったカップも、頭を撫でてくれた萩原さんの手も、お部屋も、何もかもが暖かい。戻ってきた萩原さんは私の頭をもう一度撫でてからドライヤーにスイッチを入れた。ドライヤーの風の音が部屋に響く。髪の毛を梳くように撫でられて、暖かい風が頬を掠める。
喉を通るココアの甘さと、何も聞かずに一緒にいてくれる萩原さんの優しさに胸が痛む。折角シャワーを浴びたのに、ボロボロと涙が零れてぶかぶかのTシャツの裾を濡らす。カチリとドライヤーのスイッチが切られて、ぎゅっと握り締めていたカップがするりと抜かれる。
「咲桜ちゃん、おいで」
ふわりと優しく微笑んで、私に向かって両手を広げた萩原さんに飛び付くのを躊躇った。これだけ迷惑をかけておいて今更と思っている自分もいるけれど、それでもこれ以上迷惑はかけれないと思う自分もいる。ぎゅっと唇を噛み締めて眉間に皺を寄せた私を見て萩原さんは困ったように笑った。
「俺ね、警察官になりたくてさ。最初に咲桜ちゃんを見た時に、この子を助けなきゃって思ったんだよ」
最初は、きっと警察官を目指す身として放っておけないって思ったのかもしれないんだけど、二回目に会った時に確信したんだ。咲桜ちゃんを、笑わせてあげたいって。
そう言って恥ずかしそうに笑う萩原さんを、きょとんと見つめる。急に何の話だよって顔してるね、と笑った萩原さんは話を続けた。
「一目惚れ、じゃないけどそういうやつだと思うんだよ。第六感とか、直感ってやつ?咲桜ちゃんの笑った顔が見たい、元気になって欲しい、俺が助けてあげたいって思ったんだ。
だから咲桜ちゃんが俺の事お兄ちゃんって思ってくれてるって知って、すっげー嬉しかったんだよ。陣平ちゃんにニヤニヤしすぎてキモいって言われるくらい嬉しくてさ。
だから、迷惑だなんて思ってないし、辛かったり寂しかったり苦しかったりした時は頼って欲しいし、ワガママだって言って欲しい。だって俺、咲桜ちゃんのお兄ちゃんだし?可愛い妹のお願いは叶えてやりてーじゃん?」
ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて。拭っても拭っても溢れてくる涙を一生懸命両手で拭って、零れる嗚咽を必死に飲み込む。そんな私に、萩原さんはもう一度両手を広げた。
「おいで、咲桜」
優しい声に、我慢なんて出来なかった。飛び付くように抱きついてわんわん声を上げて泣いた。寂しかった。怖かった。いつか、萩原さんもあの人みたいになるんじゃないかって。手放したくなかった。私の、私だけのお兄ちゃん。生まれて初めての、私だけ。それが無くなるのが怖かった。何があっても絶対大丈夫って、確証が欲しかった。
「あんまり泣きすぎると、目溶けちゃうよ」
「やだぁぁああ、」
「ぶはっ、ごめんごめん。冗談だって」
ぼろぼろと際限なく溢れてくる涙を笑いながら拭ってくれる萩原さんにぎゅうぎゅうとしがみつく。疲れたろ、と寝かしつけるように背中を撫でられてとろりとろりと瞼が重くなる。
眠っている間に、萩原さんがどこかに行っちゃったらどうしよう。そう思ったら怖くてぎゅううっと手に力が入る。その手を包み込むように大きな手が重ねられてどこにも行かないよ、と優しい音が耳を撫でる。
「だから、安心して休みな」
おやすみ、と額にキスが落とされて一気に眠気が襲ってくる。重ねられた手の温もりも、安心する香りも、全部全部、私だけのものだと思ったら幸せで堪らない。ゆっくりと意識が沈んで、とぷりと落ちた。