(Side:夜久)
びくびくと怯えた様子で俺の服の裾を掴んでいた雛が、渡り廊下を目前にして足取りが軽くなる。体育館にいるであろう仲間達の声を聞いて元気が出たのか嬉しそうに俺達の方を向いた雛だったが、次の瞬間にはびしりと固まった。いくら名前を呼んでも視線は一点を見つめたままで動かない。
どうしたのかと、思わず黒尾と顔を見合せた瞬間だった。雛の表情が一瞬にして恐怖の色に染まってじわりじわりと目に涙を浮かべ始める。もう一度名前を呼べば、か細い声とも言えない小さな声が返ってきて、雛の震える指が一点を差す。誰かがいる、とハッキリそう言った雛に内心ビビりながらもその方向を見るが、誰もいない。
黒尾と共に首を傾げると雛の顔色は益々悪くなって、見開かれた瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れ始める。まるで、目が離せないといった様子で固まる雛の腕をそっと掴んで歩かせようとするけれど、雛がそれを拒む。目を離してはいけない、と。
どうしようか、と一度雛から手を離した瞬間、雛の手が俺と黒尾の腕を掴んで走り出す。訳も分からないまま駆け出して、ちらりと後ろを振り返るが何も無い。雪崩込むようにして体育館へ転がり込んだ俺達を全員が驚きの目で見て、それから後ろ手で扉を閉めたまま荒い呼吸を繰り返す雛を見て目を見開いた。
へなへなとその場に座り込んで、荒い呼吸のままぼたぼたと涙を流す雛に声をかけるが返事はない。ぼんやりと、ただ一点を見つめて涙を流す雛の様子は明らかにおかしかった。肩を掴んで揺さぶるようにしながら、少し大きい声で雛を呼ぶ。それでも反応は無い。
「ちょ、これやべえんじゃねぇの」
「息出来てねぇな、これ」
「澤村!!雛ちゃんがやべぇ!!」
「雛が何でここに…!」
「おい雛!!分かるか!?ちゃんと息しろ!!おい雛!!」
ばたばたと慌てた様子で烏野の奴らに声をかける黒尾を横目に雛の名前を呼ぶ。何度も、何度も呼ぶけれど、雛の瞳はどこかを虚ろげに見つめたままだった。そして、上手く呼吸が出来ないまま、ゆっくりと目を閉じた雛の体がぐらりと傾く。反射的に腕の中に抱え込んで、ゆっくりと上下する肩に安堵の息を漏らした。
「おい黒尾、一体何があったんだ」
「いや俺達にもさっぱり…」
「ていうか、なんで雛がここに?どこにいたんだよ」
「3階の教室にいたんだよ。ご丁寧に鎖で拘束されてな」
「鎖!?なんでまたそんな…」
「理由は知らねえけど、教室に隠されてた鍵で拘束を解いてここまで来たんだけど、途中で…な、 」
目尻から涙を流して眠る雛をそっと抱えて扉から離れる。理由は分からないが酷く怯えていたようだし、恐らく雛は何かを見たり、何かに気付いたりしたんだろう。そっと寝かせて着ていたジャージをかけてやれば、ほんの少し眉間のシワが取れた気がした。
可愛い後輩が泣きじゃくり、挙句の果てには意識を失って倒れるなんて、一生のうちで経験することはほぼないだろう。澤村くん達も明らかに動揺した様子で雛を見ていた。雛を見つけてから今までのことを簡単に話し、とにかく今は雛が起きるまで待つことにした。どちらにせよ、意識のない雛を抱えて移動はリスキーだし、動くことなど出来はしないのだが。
「夜久さん…雛さん、大丈夫、ですよね…?」
「気失ってるだけだから、大丈夫だろ。ただ、大分メンタルはやられてるだろうから、起きたら声かけてやれよ」
眠る雛の横に腰を下ろせば、そうっとリエーフが近付いてきてしょんぼりと眉を下げる。雛に懐いていたリエーフは心配で仕方がないのだろう。ぽん、と頭を撫でてやればしょんぼりとした顔は変わらないものの、力強く頷いて雛の手をぎゅっと握っていた。
烏野の方でも澤村くん達に鬼気迫る勢いで雛の様子を尋ねる後輩達がいた。少し離れたところで様子を伺っている面々も視線は雛に注がれていて、雛が如何に沢山の人に影響を与えているのかを思い知る。
「人気者だよな、ほんと」
そう呟いてそっと頭を撫でるが、雛の眉間には依然としてシワが刻まれている。
「早く起きろよ、雛」
俺も、黒尾も、リエーフも、研磨も、もちろん烏野の奴らも。皆お前のふにゃふにゃした笑顔が見たいんだ。だから、早く目を覚ましてくれよ。そう、願いを込めるように頬を撫でて、何もしてやれなかった自分を責めるようにもう片方の手を握りしめた。