憧憬は傍に


放課後、あるいは放課後前から男子バレーボール部の使用する体育館に通う日々が始まって数週間が経った。ボールが強く叩きつけられる音で眼が覚めるのも何度あったか分からない。最初の時はよく練習終わりまで爆睡できたものだと、自分でも感心しかけてしまった。カーテンの下からこっそり覗くと、やっぱり牛島先輩がスパイクを打った音だったようで。こうして時々皆の練習を眺めることも増えて、純粋に凄いと思う感情は増すばかり。監督の怒号はありとあらゆる場面で飛び出すし、休憩なんか数えるほどしか無い。そうやって練習してもコートに入れるのは6人だけ。それでもひたむきにバレーに打ち込むその姿は、私の目にはとても眩しく映った。

いつも授業をサボる訳でもないし、授業で体育館に人がいる時もあるし毎日は来ていないけど、男子バレー部の自主練によく残るメンバーとは顔見知りくらいにはなったと思う。それでもやっぱり、私と彼らが住む世界は違うんだと思わずにはいられない。――まったく、眩しすぎて目が潰れそう。



「……ん……」

いつもの場所――体育館二階の突き当りにあるカーテンの中で目が覚めた。今日は午後イチの授業だけサボタージュして体育館に来て、次の授業になったら教室に戻ろうと思ってたんだけどいつの間にか寝てしまってたみたい。今何時だろう。ボールの音がしてないって事は、まだ放課後じゃないんだろうけど。ポケットから携帯電話を取り出して画面を開く。と、そこには信じられない時間が表示されていた。

「嘘でしょ」

驚きながらもあくまで冷静に、下校時間をとっくに過ぎた数字から視線を外しこっそりカーテンを捲って階下の様子を伺う。

「誰もいないじゃん」

唖然として零しながら反対の方向を見ると確かに外は真っ暗になっていた。どうしよう、体育館の照明とか、施錠とか――。ああもう、胃が痛くなってきた。身から出た錆なんだけど。取りあえず本当に誰も残っていないか確認をする為に鞄を掴み、カーテンから飛び出して一階へと降りていく。

「遊鳥まもる」
「はい!」

突然名前を呼ばれた事に驚いて反射的に返事をしながら勢いよく振り返った。

「――牛島先輩」

振り返った先には、ジャージを着こんだ牛島先輩。

「起きたのか」

その肩には既に鞄がかかっていて、もう帰る準備万端と言った感じだ。もしかしなくても私がいたから帰れなかったんだろうか。そう思うと申し訳なくて、やっぱり胃が悲鳴を上げる。

「すみません」

俯いてそう呟くと、牛島先輩は「問題ない」と一言口にして体育館の出入り口へと踵を返した。歩幅の大きい先輩に置いて行かれない為に急いで足を動かし体育館を出る。体育館内の照明を落とした先輩は今出た扉の鍵を閉めて

「鍵を返してくる。少し待っていろ」

と、職員室がある校舎へと駆けていった。待っていろ、とは。それを聞く間もなく小さくなっていく背中を諦めて見送る。申し訳ない事をした、と思うと同時にこれで気を悪くして体育館への出入りが禁止になったらどうしようという気もある。そんな自分に嫌気と吐き気を感じながら、膝を抱えて先輩を待った。

「待たせたな」

そう言って先輩が戻ってきたのは本当に直ぐだった。

「もう遅い。寮まで送ろう」

たった二言で私に待っていろと言った理由を告げられて驚く。寮までなんて、10分もかからないのに。もう来るなと言われてもおかしくない位なのに、どういうつもりなんだろうか。先輩の真意を測ろうとその顔を見てもいつもと変わらない無表情で、何を考えているかなんて全然分からない。私としては、胃が恐縮するけど嫌な訳もないし、断る理由は無かった。

ぽつぽつと控えめに街灯が灯る寮への道。道中ひとつも言葉を発さない先輩に、本当は怒ってるんじゃないかという考えに堪らなくなった私が声を掛けた。頭の中で当たり障りのない話題を浮かべて、それを振ってみる。

「凄いですよね、牛島先輩。バレー部の練習風景を眺めてて先輩が有名な理由も分かりました」

思い浮かべる、体育館でのバレー部員たち。輝く彼らの姿を思い浮かべる。バレーボールの知識なんか雀の涙ほどしか持たない私の目にも牛島先輩の光は他よりも数段際立っているように感じた。

「そうか」

言われ慣れているのか、それとも他人の称賛は気にしない質なのか、牛島先輩は淡白な一言だけを置いていく。この後はどうやって会話を続けよう。そう思ったのも束の間、意外なことに牛島先輩の第二声が続いた。

「お前も二年の間では知られていると、白布が言っていたが」

――白布くんは先輩方に一体何を吹き込んでくれたんだ。名乗った覚えもないのに牛島先輩が私のフルネームを知っていたのはそういう事だったの……。少しだけ疼く胃に苦笑いしか浮かばない。

「私のは……悪目立ちって言うんですよ」
「そうか」

私の言葉の意味をそのまま、卑下とも自虐とも取らない先輩とのやりとりは少しだけ心地よかった。私の名前が二年生の間で独り歩きしているのは、先輩たちの様に自身の血と汗で作り上げた努力の結果じゃない。その逆だ。今も逃げる事ばかり考えている私は、やっぱり隣を歩く英雄の光に消されてしまいそう。寧ろそうなってしまえばいいんじゃないかとさえ思う。締め付けられて窮屈を叫ぶ胃を宥めながら深呼吸したところで、寮まで辿り着いた。

「ありがとうございました、牛島先輩」

そう言って頭を下げると、牛島先輩は

「ああ」

と左手を上げる。もう一度軽く頭を下げて、いつもの様に私から踵を返す。牛島先輩の背中を見ないうちに門を潜って女子寮へと入った。

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