呼び水


※吐瀉描写注意



ああもう、最悪だ。そう頭の中で毒づきながら大きく息を吐く。苦酸っぱい口の中だとか、すえた臭いだとか、裏返りそうな胃の感覚だとか、そんなものは正直もう慣れた。いつまで経っても慣れないのは、少し離れた所からこちらを見ながらこそこそ話すクラスメイトの『またか』と言う目。数年来の友人かのように付きまとうそれに辟易しながら頭を垂れる私に、体育教師が心配そうな声音で言う。

「大丈夫か、遊鳥。保健室行くか」
「……はい」

口を拭う余裕もない私に素直に頷く以外出来よう筈もなく、声だけで返事をした。

「保健委員は……」

私が吐いたものに土を被せてから固まるクラスメイトの方へ視線をやる体育教師。

「大丈夫です、ひとりで。……いつもの事なんで」

つい、八つ当たりの様にいらない一言を付け足してしまった。こんな時でさえ可愛げがないのも周囲に引かれる原因なんだろうなんて冷めた頭でぼんやり思う。ふらふら覚束ない頭を上げて膝を伸ばして、逃げるようにグラウンドを歩き始めた。



……もうダメだ。保健室どころか校舎内で最寄りのトイレに辿り着く前に限界を感じ、校舎に入ってすぐ、引き摺るように動かしていた足を止める。無理をしてまだ残っている胃の中身をぶちまける前にその場にへたり込んだ。

壁を背にして膝を抱える腕に頭を埋める姿勢を取る。冷たい壁と床が心地いい。少し落ち着くまでこうしていようか。目を閉じると、ぐるぐる回る暗闇の中で最近耳に張り付いた音が頭に響き始めた。

体育館のワックスがけされた床とシューズの擦れる音。宙に投げられたボールを打つ音や、そのボールが床にぶつかって高く打ち上がる音。幾つもの照明で照らし出された背の高い複数のシルエット。

――憧れなんて、大層なものは抱いていない。そこに至るには私はあまりに矮小で、卑怯で、脆弱だ。夢と現実が絡まってこんがらがった頭の中に『もう一本』と、更に高みを求める低くて力強い声が反響した。

「――遊鳥」

静かな校内でその声は私の耳に真っすぐ届いた。目眩のする現実から目の眩む夢が引き剥がされて堪らず瞼を持ち上げる。頭を動かして視線を前に据えると、現実の筈のこそに私の顔を覗き込む牛島先輩の顔があった。

「大丈夫か」

全く心配げじゃない声音でそう問われ再び顔を伏せる。何で牛島先輩がこんなところになんて疑問が浮かぶよりも、――今まで往生際の悪い痴態しか晒してなかったけどそれでも――この情けない姿を見られた事に猛烈な羞恥が押し寄せた。

「遊鳥」

もう一度名前を呼ばれ、今度は私の右肩に先輩の手が触れる。

「立てるか」
「……立つだけなら」

先輩の端的な質問に、今度は絞り出した声だけで返事をした。……でも、膝を伸ばして立つだけじゃ意味なんてない。立って、そこから前に向いて歩かない事には何も変わらない。そんな事は分かってる。分かってるのに――。

「そうか」

いつまでも動かない私に牛島先輩は納得したように呟いた。同時に私の肩から離れる先輩の左手。遠ざかる温もりに縋り付くような事はしたくない。それでも微かに残った先輩の温度を覚えようとする浅ましい自分に堪らず組んだ腕に爪を立てる。こんな私を見られたくなくて、早くこの場から立ち去って欲しかった。けど。

「一人で無理なら、オレが連れて行こう」

その言葉にもう一度顔を上げる。牛島先輩は変わらず私の目の前で、しゃがみ込み背中を晒していた。

「保健室まで行くんだろう。おぶされ」

僅かに見える先輩の横顔。その表情からはどういう意図があるのかなんて読み取る事は出来ない。だけど多分、私がその背に凭れるまでいつまでも待っていてくれる。そんな気がして、ゆっくりと腰を上げた。

現実逃避の様に、先輩の制服姿は新鮮だなんて今更考えながら、先輩の首に腕を回して身体を預ける。私の膝裏に手を添えて、先輩は何の抵抗もなく立ち上がった。

「しっかり掴まれ」
「……はい」

私の重さなんて何ともないかのように歩き出す先輩。相変わらず吐き気は収まらないけど、緊張で胃の中身以外のものが飛び出てきそうで声を掛ける。

「先輩は何でこんな所にいたんですか」

今現在はどの教室も授業を行っている筈で。受験生である牛島先輩も例外ではなく偶然この校舎の隅を通りかかるなんて事、あるんだろうか。そんな私のもっともな疑問に牛島先輩は

「教室の窓から蹲っているお前が見えた」

と、何のてらいも無く答えた。

牛島先輩の事だから、言葉以上の意味はないのは分かってる。だけどその言葉の元は――。

「……――私が二年生の間で知られてるのは、これのせいなんです」

唐突な私の言葉に、牛島先輩は目立った反応を見せない。自分でも思わぬところで口を突いて出た言葉は、弱った体と心では止められなかった。

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