てのひらの熱


※吐瀉描写注意



「……――私が二年生の間で知られてるのは、これのせいなんです」

唐突な私の言葉に、牛島先輩は目立った反応を見せない。自分でも思わぬところで口を突いて出た言葉は、弱った体と心では止められなくて。

「中学生の時から緊張とか運動とかでよく吐いてて、同級生からは白い目で見られてました。せめてテストだけはと思って勉強を頑張ってたら、休みがちでも先生は良くしてくれたんです。……そうなると、ちゃんと授業に出席してる生徒からしたら面白くなかったみたいで」

皆が皆私を悪く言う訳ではなかった。それでも遠巻きにひそひそ陰口を叩かれ、それは気になりだしたら自分ではどうしようもなかった。その結果、欠席がちになって当然低くなる内申点を補うためにはテストの点数を維持するしかなく。周りからは、勉強が出来る事を授業に出席しなくても良い免罪符にしている生徒だと認識されるのも、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。

「この学校には勉強が出来るから来たんです。……寮も、あったし。実家から出て逃げ場を無くせばどうにかなると思ったんですけど」

けどそれも、授業にも出ず寮にも帰らず、人目に付かない場所で時間が過ぎるのをただ待つという最も曖昧な所に逃げる要因になった。

「先生方は授業に出てなくても私がテストの順位をキープしてるから、見逃してくれてるんです。そうしてたらこの学校でも、テストで順位が張り出される毎に名前が独り歩きしちゃって」

牛島先輩が足を止める事もなく聞いてくれるもんだから、何処に宛てたか分からない言い訳がぽろぽろと口から零れていく。

「だから、私は先輩たちとは違うんです」

本当はそこにいていい人間じゃない。そうは思うものの、一度知ってしまった心地いい光から離れる事は難しい。

――こんな事牛島先輩に言って、どうするんだろう。ぶちまけてしまった言葉を回収する術もなく、只口を噤んだ。先輩から伝わる体温は確かに暖かいのに、指先だけが氷の様に冷たくて小刻みに震える。こうして先輩に触れて、気付いてしまった。眩しい体育館のコートで抱いたのは憧れじゃない事に。初めに私があの場所に居る事を受け入れてくれたみたいに、私自身の事も受け入れて欲しいという下心に。

それでも変わらず無言のまま歩く牛島先輩に安心する自分も居た。その態度で、言葉で、否定を示さないという事は、少しだけ期待してしまってもいいんじゃないか。そんな都合のいい解釈をする余地がある事に。

このまま保健室に着いて牛島先輩と別れてしまえば、私はまた夢の中に戻れる。――でも、それで今の私は納得できるだろうか。霞みがかってきた頭の中でそう思った、その時。

「――っ、先輩」

自分の腕を掴んでいた手をずらして、先輩の制服を指先で摘まんだ。

「どうした」
「…………吐きそうです」

保健室を目指し始めてから初めて足を止めた先輩に訴えかける。頭の奥から血の気が引いて、冷たくなる感覚。胃が収縮して息が詰まる。既に身体が覚えて、それでもどうしようもないこの感覚に目眩がした。そんな状況でも牛島先輩は焦らず騒がず、一番近いトイレに駆け出す。振動で胃が揺さぶられてもう色々とヤバい。けどどの道時間の問題だと息を止めて何とか耐えた。

トイレの入り口まで来て、一瞬牛島先輩の動きがはたと止まる。見上げた先には二つの入り口。流石にこれは、天下のウシワカでも立ち止まるのか。余裕なんて無い筈の状況なのにそれが少しだけ可笑しくて、私は青色のマークが示す方の入り口を指さした。先輩はそれを見てトイレに駆け込み、私を便器の前に降ろしてくれる。

「う、――――っ」



今度こそ、胃の中身は全部出たと思う。授業中だからか幸い男子トイレには誰もいなかった。男子トイレの個室で吐くなんて中々貴重な体験をしてしまったんじゃないか。それに同級生の前で吐いた事は何回もあるけど、先輩個人の目の前で吐いたのなんて人生で初めてだ。それに、その先輩に対して抱いている感情はついさっき自覚し始めた所で。洋式便器に顔を向けたまま、全部全部出し切って少し軽くなった頭は余計な事を考える。

「全部出たか」
「……はい」

牛島先輩がそう言いながら私の背中を優しくさすってくれるもんだから、色々と考えてしまうのも仕方がないっていうもの。私が体育館の片隅をサボり場として使う事を二つ返事で受け入れてくれた時も、バレー部の練習が終わってもまだ寝続けた私を待っていてくれた時も、その後寮まで送ってくれた時も、今回も。牛島先輩がとってきたそれらの行動に、もしかしたらと思う。

横目で牛島先輩を見ると、やっぱり目が合った。……自覚した途端に押し寄せるこのむず痒い気持ちはなんなんだろう。全くもって本当に現金なヤツだ。だからせめて、この気持ちを持っていても恥ずかしくない自分になりたいと、そう思った。

便器に沿えた指先に力を込めて、顔を上げる。視線を先輩に据えてその真っすぐな瞳に宣誓した。

「私、頑張ってみようと思います」

何を、と言うには私にとって課題が多すぎて。それでも牛島先輩はいつもと同じ真剣そのものの声音で、

「そうか、頑張れ」

と言ってくれる。それが何よりも嬉しくて、嘔吐で涙目になった眼から一粒涙がこぼれた。

場所は男子トイレ。口の中は気持ち悪いし臭いはきついし、多分私の顔色は凄く悪い。おまけに気になる先輩に胃の中身を吐くところを終始見られた。格好悪くて笑えるくらいだけど、それを気にしない素振りの彼の前だからか、私にしちゃ中々にいいスタートを切れたんじゃないかなんて思った。


そうして先輩のお陰で一通りすっきりする事の出来た私は先輩の付き添いと共に保健室までの道のりを再開した。保健室に着いた後、授業を無断で抜け出してきていたらしい牛島先輩は先生に怒られる事になって。そのお陰で再び私の胃にかかる負荷さえもむず痒く感じたりして。

季節は夏。期末テストと夏休みが、目前に迫っていた。

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