休み明け


夏休み明けの席替えが行われてから次の月曜日。結局牛島先輩と会う事なく訪れたその日の朝は、偶然いつもより早く目が覚めて、偶然いつもより早く登校の準備が済んで、偶然いつもより早く寮を出た。学校までの道のりでも白鳥沢生は殆どいなくて、朝特有の清々しい気分に浸りながら足を動かす。

「おはよう、遊鳥さん」

名前を呼ばれて後ろを振り向くと、席替え以来何かと声を掛けてくれる前の席の彼女が手を振っていた。駆け足で私の隣まで来ると、歩速を緩めて並んで歩く。

「おはよう」

この数日ですっかり慣れてしまった――といっても、未だに普通の世間話が出来ているかは自信がない――彼女との会話を始める前振りとしてこちらも挨拶を返した。

運動部に入っているらしい彼女はクラス内で見る限り男女共に友人が多く、色んな人からよく話しかけられている。初めて声を掛けられた時に私が台風の様だと感じたのもそれが彼女の常の様で、授業間の短い休み時間でちょくちょくなんて事ない話を私に振ってくれていた。どうやら本人的には普通にクラスメイトとして接しているだけの様だけど、お陰でというか何というか、ここ数日は緊張したりむず痒かったり、内心忙しなく過ごしている。何だかんだで私の他人に対する苦手意識は人嫌いまで発展していなかったらしいという事に少しホッとしていたのも新しい発見だった。心に筋肉痛というものがあったら暫くは寝込む事になりそうだなんて思いながらこの数日、私はこの状況に甘んじていた。

「珍しいね、朝会うの。朝練?」

隣の顔を見ながら尋ねると、彼女はやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせる。

「部室の掃除当番なんだ。昼休みとか放課後だと時間無いから朝のうちにやっちゃわないと。遊鳥さんは?」
「私は単純に支度が早く済んだだけ。こんな時間に早く行ったところで何するかも考えてないよ」

多分1人で黙々と勉強するに落ち着くんだろうと脳裏で思いながら控え目な溜め息と言うにも主張の弱い息を吐いた。そんな私に彼女はあははと声を上げて笑う。なんとも言えず和やかで心地のいい雰囲気を堪能しながら足を動かしていると、白鳥沢のジャージを着たひとりの男子が私たちを追い抜いた。

「始業前によくやるねえ」

言葉とは裏腹に全く感心してなさそうな語気で呟く隣の彼女。それと殆ど同時にジャージを着た男子は私たちの少し前方でピタリと足を止める。

「あ、聞こえちゃったかな」

今度こそバツが悪そうに言う彼女だけど、私はそれに同意も否定も返せない。振り返る男子が『あの人』だと思い至った頃には、その切れ長な目と私の目がお互いを捉えた。足を動かす事を忘れて棒立ちになった私と、進んでいた数メートルを引き返してくる男子生徒――牛島先輩とを隣の彼女は交互に見つめる。そんな彼女に何かを言う前に、牛島先輩が口を開いた。

「遊鳥」

一ヶ月以上ぶりに聞く先輩の声。夏休み前と少しも変わらないその温度が、何故だか妙に嬉しく感じられた。
――部活の走り込みですか、とか、他のバレー部の方は一緒じゃないんですか、とか、久しぶりですね、とか、元気でしたか、とか。いろいろな世間話の切り口が、瞬時に浮かんでは形になる事なく消えていく。その短い間、先輩の頬を伝う汗を凝視していた事にハッとして、それを取り繕う様に「はい」と返事した。私と先輩の間で最早テンプレートと化したその一言ずつのやり取りの後、先輩は本題を切り出す。

「この間の礼をまだ言っていなかった。ありがとう」

初めて耳にする先輩の感謝の言葉。恐らく気持ちを込める事が重要になるだろうその言葉にすら抑揚は感じられない。それを牛島先輩らしいと思うと同時に、先輩の言う『この間』が何時を指すのかという疑問が浮かんだ。私の記憶では確かに夏休み前から会っていなし、そもそも先輩にお礼を言われる事をした覚えもない。――そんな私の考えを読んだわけではないだろうけど――先輩の台詞はそこまででは無かった様で、そのまま言葉を続けた。

「美味しかった」

あ、もしかして。先輩のその一言で、心当たりがひとつだけあった事を思い出す。私の感覚では『この間』と言うほど近くはない、長期休みの1日目。補習で偶然会うことの出来た同級生の男子バレーボール部員に託した、ほんの一欠片の私の気持ち。

「白布君にお願いした、クッキー?」
「ああ」

言葉という形を持ってつい口から零れてしまった言葉を牛島先輩は短く肯定した。

「それって、夏休み初日の?」
「うん」

申し訳ない事に蚊帳の外になってしまっていた隣の彼女の発言に頷く。私の返事を聞いて満足したのか、彼女は「なるほどねー」と何やら納得して様子でうんうんと頷いた。そしてまさかの牛島先輩も先の遣り取りだけが足を止めた理由だった様で、元々進んでいた方向へと振り返る。

もう体育館へは行かないから最後のお礼にと白布くんにクッキーを渡してからこっち、自分の事で忙しかったとはいえ牛島先輩の事を考えなかったわけでは無い。一目見たいなとか、会いたいなとか、なんなら少し言葉を交わしたいとか。そんな浮かれた事も少しは考えたし、何より私の口からきちんとしたお礼を言いたいと思っていた。偶然会えた今を逃したら、次に会えるのはいつになるんだろう。そんな思いが瞬時に脳裏を過ぎって、考える前に私の喉が空気を震わせた。

「牛島先輩――!」

前へと傾きかけていた先輩の重心が真ん中に戻る。先輩の顔が再び振り返ったそのタイミングで、口を開いた。

「私の方こそ――ありがとうございました」

感謝する事が沢山ありすぎて、結局どれかを選べず簡単な言葉ひとつしか出てこない。それでも私の気持ちが出来るだけ言葉に乗るように。自分の中で最上級に丁寧に口を動かした。
――体育館の片隅を貸してくれて。私を迎えに来てくれて。笑わずに話を聞いてくれて。私の決意を聞き留めてくれて。私を、見つけてくれて。行きたい所はまだずっと先。だけどそこまで目指そうと思えるようになったのは男子バレー部の――牛島先輩のお陰なんです。そんな気持ちが、欠片でも先輩に届けば良かった。

「――ああ」

いつもの様に一言だけを残して、先輩は今度こそ前を向いて走り出す。

「……牛島先輩って、あんな顔するんだね」
「…………」

唖然として言う隣の彼女に、私は返事を返せない。血液が沸騰したのかと錯覚するほどの熱が顔に集まって、頭がパンクしそうだった。悩むことが出来た訳じゃない。何か思いを馳せている訳じゃない。それなのに、今の一瞬で頭と胸がいっぱいになって呼吸さえも覚束なくなった。

学園の方へ向く時にはいつも通りの厳しめな無表情だった牛島先輩。だけど、その直前、私の言葉を受け取った先輩は、少しだけ穏やかな微笑みを浮かべていた。

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