ほんの少しのもう一歩


夏休みが明けて一カ月。相変わらず体調の波は激しいし、クラスメイトの目も気になって仕方がない――私を見ながらひそひそと囁き合う声は、私が教室にいる時間が増えた事によって寧ろ多くなっている気さえする――。けど、夏休み前のあの時一方的に牛島先輩にした宣言通り、この一カ月はなんとか学生の本分を全う出来ていると思う。

頑張れている理由としてはやっぱり、席替えの時に前後になった彼女の存在だろうか。いくらクラスメイトにひそひそと何かを言われても、彼女のような存在が居るという事実が私を教室に留まらせてくれているように感じる。

そして、それでもめげそうな時には2週間ほど前に偶然見ることの出来た牛島先輩の笑顔――というにも細やかなものだったけど――が脳裏に浮かんだ。それを思い出してはむず痒かったり恥ずかしかったりと内心忙しくなるけど、気持ちを立て直すにはそれだけで十分だった。なんだか上手くいきすぎて怖いくらいだけど、今のうちに取り戻せるものは取り戻しておこうと、そんな気になる今日この頃だった。



以前だったら訪る事の無かった食堂。ついこの前、前の席の彼女が白鳥沢の学食は味がいいと言っていた事を思い出して、立ち寄ってみた。

夏休みよりも前に、男子バレー部員目的で訪れた時と変わらず、人でごった返している。意識的にそれを気にしないように努めながら、張り出されたメニューの前に足を踏み出した。
ざっと目を通すと、流石スポーツ特待生の多い事で有名な学園。その殆どが定食で、食事を受け取って移動する生徒の手に持つトレイを見ると中々にボリュームもしっかりしている。……正直、どのメニューも食べきれる自信がない。しかし私の胃は、そろそろ何か食べ物を寄越せと抗議し始めている。食べ過ぎたら食べ過ぎたで返却してくるくせに何をワガママ言ってるんだコイツはと、つい現実逃避のような思考を巡らせてしまう。今日は今からでも購買に行って、余っているもので満足するべきかと、やっと思考が前進した、その時。

「遊鳥ちゃーん!」

聞き覚えのある声が、背後から私の名字を口にした。驚きで肩を跳ねさせてから振り返ると、そこにはこちらに向かって手を振りながら近づいてくる天童先輩の姿があった。

「お久しぶりです」

実に二カ月以上ぶりのその人物に軽く会釈をする。そして、私の視線は吸い寄せられるように天童先輩の少し後ろを歩いてきていた牛島先輩へと移動した。

「今から昼か」

私の前面、いつもの距離まで来て立ち止まった先輩に見下ろされながら問われる。まっすぐ目を見つめられて、あの時初めて見た彼の表情を思い出した。つい横へと泳がせた目を合わせられないまま、問いに答える。

「はい。偶には学食もいいかなーって思ったんですけど、多分食べきれなくって、どうしようか迷ってました」

余計な事まで口にしてしまうのは多分緊張のせいだろう。顔に熱が集まるのが自分でも分かる。

「それじゃオレたちと食べようよ。残ったら食べてあげるからさ」

あっけらかんと言い放ったのは天童先輩で、その顔にはなんだかわざとらしい笑顔が浮かんでいて。もしかして色々とばれているんじゃないだろうかと不安になる。それでも牛島先輩は変わらない声音で天童先輩に

「お前はそんなに食べられないだろう」

と物申した。

「やだなあ当たり前じゃん。食べるのは若利くんだよ」

あくまで楽し気に言いながら牛島先輩の肩を叩く天童先輩。牛島先輩はそれで納得したのか「そうか」と返し、再び私に目を向ける。

「だそうだが、どうする遊鳥」

牛島先輩が自分の意見を態々挟まない時は異論が無い時。それはこれまでのやりとりで何となく分かったけど、如何せんこの食堂には人が多い。先輩と一緒に食事をするっていうだけでも胃が縮こまる事案なのに、彼らと昼食を共にしている所なんて同学年の人間に知られたら噂話のタネになるのは分かり切っている。授業に出席するだけなら嘔吐さえ何とかすればどうとでもなるけど、先輩たちとの事を噂されるとなると、それは受け流せる自信はない。嬉しい誘いではあるけど、返答の言葉は咄嗟に出てこなかった。代わりに視線があちこち泳いで自然と顔も下を向く。

「ほらほら、早くしないと俺たちも昼食いっぱぐれるからさ」

天童先輩にせっつかれてちらりと時計に目をやると、確かに針だけは順調に進んでいて。もうどうにでもなれと、下を向いた顔ごと頭を下げた。

「分かりました。お願いします」

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