うたたね



人気のない放課後の図書室。窓に程近い自習用の机で、私は二冊のノートと睨みあっていた。

天童先輩と出くわしたその後、教室に戻った私に伸べられた救いの手――「次の授業までに返してくれたらいいからね」と言ってくれた彼女のノートと、その隣に座す真っ白な私のノートのコントラストは私が図書室の一角を占拠してからこっち、十分以上は変わらずそこにあるのだ。
前の席の彼女から有り難くノートを借り受けて、ホームルームが終わるなり勇んで図書室に来たまでは良かった。けど、想定以上にポンコツだった今の私の頭では、彼女のノートに書かれている内容が半分も理解できないという窮地。熱のせい……というのは、正直認めたくはない。二日も学校を休んだんだから、そろそろ日常に復帰しないと。そんな焦りが胸中に巣食って、ますます思考は回らなくなる。

「ふう――……」

だめだ。すっかり頭が悪循環に陥ってる。そんな気持ちを切り替えようと、周りに人がいないのを良い事に長い息を吐いて、図書室の天井を大きく仰いだ。

――不意に、自分の視界が真っ赤に染まっている事に気が付いた。これは強烈な光が瞼を通過して眼球を刺激しているのが原因だ、なんて考えが及ぶようになる頃には、極限まで鈍った頭で現実逃避を始めてしまう。いやだって、目を閉じたままでも自分が机に突っ伏しているのが分かるし、時間の感覚を感じなかったという事はそれなりに熟睡していたという事で。記憶の中で最後に自分がとった行動は今とは真逆の仰け反った体勢をとっていたところだぞやる気はあるのか私はと、他人事で呆れてしまうのも仕方ないじゃない。
そんなふざけた思考を一通り巡り終えたところで、瞼越しでも痛いくらいの赤光が鳴りを潜める。とうとう陽が暮れてしまったのかと観念しながら首を捻りつつ目を開けて、一番に認識したのは視線のまっすぐ先にある大きな手。――日は、暮れていない。丁度その手で日光が遮られているだけで、ノートも机も本棚もまだ赤く染まっている。図書室の中も静かなもので、少なくとも私のいるこの一角には、私の顔付近に翳された手の持ち主と私以外に人はいなさそうだ。そうやって、少しずつ漸増した情報が告げる。夕日を背負って、私の隣に座る人。逆光にいる彼の、

「おはよう」

という少しズレた挨拶を聞いて、目が合った事を知った。

「――おはよう、ございます」

全く脈絡の無い牛島先輩の出現に驚く。けれどそれを深く考える頭も体現するような元気も無くて、先輩相手に失礼だとは思いながらも机に突っ伏したまま同じ挨拶を返した。左手を微妙な位置に上げたままの、傍から見るとおかしなポーズをしている牛島先輩は制服姿。部活前なんだろうか。それとも今日はお休みなんだろうか。そんな身の無い事にばっかり頭を使ってしまう私を他所に、牛島先輩は言葉を発する。

「熱がある時に勉強をしても、効率が悪いだろう」

相変わらず、先輩の言葉は直球に突き刺さる。言う通りだけど。

「それに、お前ならやれる時に取り返す」

逆光の中で、先輩の表情は読み取れない。多分、いつもと同じで表情らしい表情もないまま言ってるんだろうと思った。それで、先輩の言葉が逐一胸に刺さるのも心に沁みるのも、いつもと同じだ。なんだか、凄くずるいと感じてしまう。弱って、立ち止まって、挫けそうで。そんな時にばかり牛島先輩は現れて、そっと私に触れていく。
自分で思っているよりも私を高く評価する先輩の言葉は、いつも何を基準にして出てくるのかとか、そもそもどうして先輩の方から私の傍に来てくれるのとか、他の人にも同じように接してるんだろかとか、そうじゃなかったらいいのになとか。ぼんやりした頭で、そんな事関係なく『好きだなあ』だなんてとこまで考えて、同時に自分の頭の理性が全く行方知れずな事に気が付いた。
脳内の恥ずかしさを紛らわせる為にずっと伏せていた上半身を起こして少しだけ前髪を直すと、先輩も空に留めていた手をゆったりとした動作で自身の膝の上に降ろす。ずっと見ないふりをしていたつもりの気持ちが前触れもなく顔を出してしまったせいで、急にとてつもなくいたたまれない。

「今日は、もう大人しく寮に帰ります」
「そうした方がいい」

と言いながら、足元に置いてあった鞄を肩に掛けながら立ち上がる先輩を横目で追いかける。
先輩がここに居る理由を問いかける、なんて、踏み込んだことを尋ねられない臆病な私は、またしても逃げるための道を選ぶ。向き合ったってしんどいだけだろう気持ちを正面から見つめる事は、まだ私にはできない。せめてもう少しだけ、自分に持てるものが増えるまで。こんな、誰に言ったところでどうしようもない言い分。そう思うけれど、例えば、前の席の彼女とか、例えば、目の前の先輩なんかは、話をしたら聞いてくれる気がして。そんな"かもしれない"希望を思うだけで、胸のつっかえが、少しとれる気がして。

「牛島先輩」

脊髄から飛び出た私の声に、呼ばれた先輩はその目を向ける。

「部活、頑張ってください」
「ああ」

月並みな台詞に短い返事を残して、私の隣を離れていく。
私が口にしたところで意味があるのか分からない様な事を、言ってしまった。それでも確かに返ってきた牛島先輩の声を頭の中で反芻する。今日の私はやっぱりなんだか、浮かされているみたいだ。


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