北信介の場合

私は、信介さんが帰ってきたら言おうと思っていたことがある。
それは、今後の私の人生を左右する大きな決断だった。

俯きながら、彼の家でただただ時間が経過するのを待つ。

すると定時で仕事を終えてきた彼が、ただいま、と言って家に入ってきた。いつもなら、なるべく玄関に出てお出迎えをするようにしていたが、今日はそんな気分ではなかった。

玄関には私の靴も置いてあるので、家にいるということは分かっているはずだ。
しばらくするとリビングに彼が入ってきた。

『…おかえりなさい』
「ただいま」

私の様子がおかしいのを察知したのか、怪訝な顔をして近寄ってくる信介さんにどんな顔をしていいか分からなかった。

「どないしたん。具合悪いんか」

心配そうに私を見つめてくる。そんなに優しくしないで。…私はもっとあなたを欲しがってしまう。

『信介さん…』
「ん?」

名前を呼ぶと、少し首を傾けた。

『別れてください…』

その言葉の後に、沈黙する信介さん。あまりにもいきなりだったので混乱しているんだろう。私が彼の立場でも混乱してしまうだろう。

この決断は何も今日いきなり考えたものではない。前々からずっと考えていたことだ。何回も何回も考えて、出した決断。

「なんでや」

信介さんは取り乱すことなく、ただ冷静に聞いてくる。こんな理性的なところがとても好きだった。怒らないでちゃんと私の話を聞いてくれるところも、弱っている時に完全に甘やかさないでアドバイスをくれるところも、全部全部好きだ。

だから、それが耐えられなかった。

私は彼がいなければ生きていけない体になってしまったのだ。

何につけても信介さんの言葉が欲しくて、つい頼ってしまう。自分では何もできない出来損ないだ。これでは彼の重荷になり続けてしまう。彼といると自分がダメになってしまうような気がして怖かった。

こんな自分が嫌いだ。

だから何日も考えて、信介さんと離れる決断を下した。

『私、信介さんの隣にいると安心してしまって…、このまま依存しちゃうんじゃないかってすごい怖いんです。自分の事、嫌いになりそうで怖くて…それで』

言っていることは支離滅裂だ。果たして言いたいことの何割が彼に届いているのか分からない。

「…嫌やゆうたら、別れるのやめてくれるか?」

その言葉に何も言い返すことができなかった。“分かった、別れよう。”その一言を待っているようで待っていなかったのかもしれない。心では引き留めてほしいと思いながら、彼の幸せのためなら私の存在は重荷になるだろうと考えて別れてほしいと願う。そんな矛盾した気持ちが脳内を駆け巡る。

「名前が重荷と思ったことなんて一度もあらへん。寧ろ、帰ってきて、お帰りって言ってくれて、美味い飯食って、一緒に寝るんが好きやってん。知らんかったやろ」
『…はい』

泣くのを我慢していたのに、信介さんに頬を撫でられた瞬間一気に涙腺が崩壊した。こんなに私を見てくれている人は他にいるだろうか。

『でもっ、このままだと…、信介さんに…迷惑ばっかりかけちゃいます』
「名前が隣におってくれるだけで、十分幸せやで」

泣きじゃくる子供をなだめるように抱きしめて背中を撫でてくれる。こんなにも素敵な人と私は別れようとしていた。なんて馬鹿な人間なんだろう。もう、彼のそば以外では幸せにはなれないだろう。

「せやから、ずっと一緒におってや」

その声色が優しくて、心からの安心をくれた。
もう、別れる覚悟なんていらない。

その代わり彼の傍から離れない覚悟が欲しい。
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