時間を見つけてはプールの補修作業を進めるようにしてから、数日が過ぎた。そして今はお昼休み。少し目を離した隙に、ハルが教室からいなくなっていた。
いつも一緒にお昼ご飯を食べているのに、何も言わないで居なくなっちゃうなんて、ハルは忍者か、と突っ込んでしまいそうになった。いつも知らないうちにいなくなるなぁ。その俊敏さはまるで忍者の末裔のようだ。
「ハルいないねぇ……どこ行っちゃったんだろう」
マコはそう言っているが、どこにいるかは大体想像できている。きょろきょろと見渡して、マコが何かに気付いた。ずいぶん遠くを見ている。やはりそっちの方角か。
『どうしたの?』
「プールに人が……」
言われてプールに視線を向けると、男子生徒っぽい人、つまりハルがプールの中をデッキブラシで掃除しているようで。
『ハル……、お母さん嬉しい』
「ハハ、いつからお母さんになったの」
休み時間を使ってまで掃除をするなんて、よっぽど早く泳ぎたいんだ。ハルがこんな風に何かに一生懸命になる事なんて滅多になかった。授業は不真面目ではないけど、覇気がない態度だったのに。季節的にはまだ泳げないが、いつかハルのお泳ぎを見る事ができると思うと自然と笑みがこぼれた。
『ハルに負けてられない!私も行ってくる!』
「あ、待って俺も行く」
この際昼ごはんを食べられない事なんて気にしていられない。ハルのためにも、水泳部のためにも私も頑張らないと。
***
「わぁ〜!随分綺麗になったのね〜!」
放課後、久しぶりに天方先生が進行状況を見に来た。まだ全ての補修が終わってないとはいえ、最初とは見違えるほどに綺麗になったプールを見て感心している。もう少しで授業でも使えるくらいになりそうだ。天方先生に褒められると嬉しいなぁ。
「そんなところで座ってないで、先生も手伝ってくださいよぉ!!」
渚君が懇願する。
「何言ってるの!この季節の紫外線の量すごいのよ!?貴方たちは若いからいいでしょうけど!」
先生の言うとおり、この時期の紫外線は若くても気になる。日焼け止めはしているものの、やっぱり外の部活というのはどうしても日焼けしてしまう。今、紫外線を浴びに浴びてしまうと将来が心配だ。
「すっごーい……!綺麗になってる!」
今度は入口側から可愛いコウちゃんの声が聞こえた。天方先生と同様に、綺麗になったプールを見て声をあげていた。
『コウちゃん、来てくれたんだ!』
「皆さんお疲れ様です。差し入れ持ってきましたー!」
『ん〜!ありがとう!』
私は嬉しさのあまりコウちゃんに駆け寄る。はぅあー、癒される。天方先生とコウちゃんが隣に並ぶと絵になる。可愛いと美しいの素晴らしいコラボレーションだ。
皆でコウちゃんの差し入れを頂いた後、補修作業を再開する。作業完了まで残りわずかだ。ここまでよく頑張ったなぁ、とプール全体を見渡す。そろそろ疲れてきたし、腰が痛くなってきた。
「それにしても不思議です」
すると隣でコウちゃんが唐突に口を開き始めた。
「何が?」
『ん?』
「何で一年生の時に、水泳部創ろうとしなかったんですか?」
『………なんで、だろうね』
そもそもハルが水泳を辞めた理由を、私には決して教えてくれなかった。どうしてだろう。……そんなに信頼されてないのかな。ハルは自分で溜め込むタイプだと分かっているのに、その時はどうしても聞けなかったのだ。
「あんなに泳げるのに?」
『中学は水泳部に入ってたんだよ。でも、……ハル、一年の終わりになって急に「退部する」って言って辞めちゃったの』
「何かあったんですか?」
水泳部をやめたハルは、何をするにしてもやる気がなかった。寧ろ水から目を背けているようにしか見えなかった。
『ハルは自分のこと、あまり喋ってくれないの』
「うん……同じ時期にスイミングクラブも潰れちゃったし、ハルはそれ以来、競泳はやってない」
視線を遠くにいるハルへ向ける。ハルは私たちの話に脇目もふらず、一生懸命ペンキで壁を塗っていた。私の隣にいるマコもずっとハルが心配だった。
見ているこっちが不安になるくらい、水が大好きなハル。水に浸かることは今もやめてない。泳ぐことが誰よりも大好きなはずなのに、自ら競泳をやめた。きっと丁度そのくらいの時期に、きっとハルにとって何か大きな事件があったんだろう。
「お兄ちゃんも同じなのかな……」
「え?」
「この前、お兄ちゃんに会いに行ったら、水泳部にいなくて……鮫柄学園に転入したけど、水泳部には入ってないみたいなんです」
水泳部に入っていなかった、という事実に驚くマコ。私だって驚きだ。だから、凛君は練習に参加してなかったんだ。だけどプールに現れたってことは少なからず凛君にだって未練があるはずだ。
「そんな……!だってこの前ハルと競争して……」
「きっとそこで負けたんですね……それでお兄ちゃん、もう水泳がダメになったんですよ……」
コウちゃんは凛君が負けたと思い込んでいるようだ。マコが違うとばかりに慌てて訂正する。
「いや違う、そうじゃないよ、だってあの夜の勝負は――」
***
「やっぱりすごいよハル……」
「うん、ターンのたびに付けられていた凛ちゃんとの差が、もうあんなに縮まっている!」
スタートは凛君の方がずっとずっと速かった。だけど、泳ぎではハルがどんどん追い上げていた。
「っ、最後のターンに入る!」
「差は!?」
「ほぼ同時!」
最後のターンで壁を蹴るタイミングは、言う通りほぼ同時だった。どちらが勝つのか予想もつかない。
「並んだ!!」
「いや…、ターンだと凛の脚力が有利……!」
最終的に先にゴールしたのは、凛君だった。猛獣のように勢い良く水から顔をあげた凛君と対照的に、スっと静かに軽い調子で立つハル。水の中でも決着は分かっていたのだろう。
「っしゃあ!!」
凛君はキャップとゴーグルを外し、嬉しそうに水面に拳を叩き付けた。ハルに勝ったことが心底嬉しかったようだ。凛君は気づいているのかな。貴方の笑顔はあの時みたいに眩しいよ。だけどさ、何かが違う。けれど私はその決定的な‘何か’を見出せずにいた。