21




「ええええ!? お兄ちゃん勝ったんですか!?」

勝負の結果を聞いて驚くコウちゃん。きっとハルの速さを知っているから、その結果に驚いたんだろう。

「そうだよ!凛から聞いてなかったの?」
「何も言ってくれないから……。てっきり負けて落ち込んでるんだと思ってた……」
『凛君すっごく速かったよ!』

どちらかと言うと凛君は落ち込んでいるというより、悔しがっていた。勝ったと決まった瞬間は無邪気に喜んでいたのに。あの時はハルの勝負に対する無頓着さに苛立っていたんだと思う。

「確かに、あまり勝ったって感じじゃなかった……どっちかって言うと、ハルの方が……」

問題はその後だったのだ。

***

切らした息を軽く整えるハル。そして、何の感情も篭っていない口調で凛君に話しかけた。

「お前の勝ちだ。良かったな、凛」

勝負などには興味はない。俺はただ泳げればいい。そう聞こえた。

「――良かったな?」

ハルの言葉で凛君の表情が一気に曇った。声が怒りに震えているのが分かる。

凛君はハルの首から提げられたゴーグルに掴みかかり、乱暴に引き寄せた。ハルは動じずに凛君を見ていた。互いの感情はぶつからない。凛君の怒りの感情を、ハルが故意的に避けている感じだ。ハルはいつだって争いを好まない。

***

「――それで、騒ぎを聞きつけた先生が駆けつけてきてさ」

そのまま私達はみんなで怒られた。そして我が学校にも侵入のことがバレてしまったというわけだ。結局凛君とは喧嘩別れ。先生に止められた後、凛君は一度も、…たったの一度も私を見てくれることはなくて。私がいつの間にか凛君に嫌われてしまったのかと思うほどだった。何回思い出しても苦しい。

「……でも負けたのにへんなの」

負けたのに悔しがる感情を見せないハルを不思議がるコウちゃん。

「ハルはきっと、泳げればそれでいいんだよ。昔のハルに戻ったんだ。もともと、勝ち負けとか、タイムとか、そんなの興味がない奴だったから」
『ハルらしいって言えばハルらしいよね』
「――お兄ちゃんも、また昔みたいに……」


コウちゃんはふわりと笑った。笑った表情はどこか凛君に似ている。やっぱり兄弟なんだなぁ。

「わたしでよければ、マネージャーとして皆さんのお手伝いさせてください!」
『コウちゃん、本当……?』
「はい、名前ちゃんと一緒に皆さんを応援させてください!」

反射的にコウちゃんに抱きつく。こんなに嬉しい出来事が他にあっただろうか。

「なになにー?どうしたのー!?」

そんな私達を見て、興味津々で話しかけてくる渚君。

『コウちゃんが、マネージャーやってくれるって!』

部員が増えました。みんな部員が増えて喜んでいるように見える。私は嬉しさのあまり表情筋が緩みまくっていた。

その日の夜。私はご飯を食べた後、少し外の空気を吸いたくなって外に出た時だった。マコが石段を歩いている姿が見えて、思わず声をかけた。

『どこに行くの?』
「うわっ!名前!」
『何よ、人をお化けみたいに!』

そんなに驚かなくていいじゃない。相変わらずびびりだなぁ、マコは。小さいときから何も変わってない。

「ごめんごめん。少しびっくりしただけ。今からスイミングスクールに行こうと思ってて」
『取り壊しって今日だった?』
「うん、最後に見に行こうかなって思って」
『私も行っていい?』
「うん、いいよ」
『ちょっとだけ待ってて。お母さんに伝えてくるね』
「ゆっくりでいいよ」

私はすぐさま家に帰ってお母さんに『ちょっとマコと出かけてくるね』と告げると、「気をつけなさいよ」と言う返事がきた。その後外に出ると、マコはさっきの場所にいた。

ゆっくりと歩きながらスイミングクラブに着くと、既に取り壊しが始まっていた。大きな重機によって容赦なく壊されている。今は夜だから作業は停止してるけど、昔の面影はどこにもない。

『寂しい、なぁ』
「うん、思い出の場所だったんだけどなぁ」

形がある場所が跡形もなく無くなってしまう。それでも、大切な思い出だけはなくさないようにしよう。

「辛いよねぇ〜思い出がこうやって形をなくしちまう、っていうのは」
「――!?」
『ぎゃあ!』

突然後ろから声をかけられて、驚いて奇声をあげる。もうちょっと女の子らしい声をあげなさいという要望を受け付けられそうにありません。

反射で振り向くと、見た事があるピザ屋のバイクに乗っている、やたらファンキーなおじさんが笑いながら話しかけてきた。金髪という時点でファンキーさは何倍にも膨れ上がっている。


「君達も関係者か何かかい?ま、時代には抗えない、って事だな。寂しいねぇ」

どこかで見た事があるような。

『ねぇ、マコ。どこかで見たことない?』
「え、あ……ああ!?ひょっとして……笹部コーチ!?」

笹部コーチ………笹部コーチ。あ、ああああ!そうだ!この感じ、スイミングスクールの笹部コーチだ!

「んあ?」
「真琴です!橘真琴!」
『名前です…!小さい頃お世話になってた!』

マコに続いて名乗る。するとコーチも思い出したようで「おお!?」と驚いていた。

「がははー!でっかくなったなぁ、真琴!お、それに名前か!」
「お久しぶりですー!」
『はい、お久しぶりです!』

久しぶりの邂逅に胸が踊る。懐かしの再会だ。

「ま、今は俺、ピザ屋のバイトだけどなー」

コーチは笑いながらバイクを軽く叩いてそう言った。しかしコーチも昔とあまり変わっていない。鬼の吾郎の面影は少しだけある。

「お前らもここの最後を見届けに来たのか?」
「笹部コーチも?」
「配達の帰りに、ちょっとな。他の奴等は元気にしてるか?」
「はい……ハルも渚も、同じ学校です」
『私も岩鳶に入ったんです』

「そうか、そういえば凛とも仲良くやってるか?」

急に凛君の名前が出てきて、少し言葉に詰まる。仲良くはできてない。私なんて無視どころか、目を合わせてもらえない始末だ。………悲しすぎる。

「――はい、学校は違うけど……」

マコの少し寂しそうな声に、私は気づいてしまった。でも、コーチに心配をかけるわけにもいかないから、マコは優しい嘘をついた。優しすぎる嘘だ。

「オーストラリアから帰ったんだな、凛」
『先月帰国したそうです。凛君だけは鮫柄学園です』
「そうか……最後に見た時、随分落ち込んでたから、ちょっと心配してたんだよ」
「落ち込んでた……?」


私達が最後に会ったのは、彼がオーストラリアに留学しに行った時だったはずだ。その時の凛君は眩しい笑顔で、希望で満ち溢れていたはずだ。

「遙から聞いてないのか? 確か、お前たちが中学一年の冬の事だ」
「え……」
『中一……?』

中学一年の冬、って言ったら。ハルが水泳部をやめた時期と丁度一緒だ。

「年末、閉館間際の時間に、遙と凛がふらっとやってきたんだ。帰省したらばったり会った、とかで」

コウちゃんが「お正月には帰ってましたけど」と言っていたのをふいに思い出す。……帰ってきた時に、ハルと凛君がばったり会って…。待って、そんなことハル、一回も教えてくれなかった。

「まさか、そこで二人は勝負を……!?」
「そう。それで遙があっさり勝っちまって」
「え……」

その頃は水泳部でも上手くいっていた。部活でも軌道に乗り始めた時だったと思う。

「凛はえらく落ち込んでた。……そりゃそうだよな……水泳留学までしたのに、なんでなんだ、って」

もしかして、凛君はそれが原因であんな風に刺々しく変わってしまったのだろうか。凛君は負けず嫌いだ。自棄になってしまうのも仕方がないことだ。

ただこれだけははっきり言える。ハルが急に競泳をやめたのはこれが原因だったんだ。なにかと凛君とは仲が良かったから、きっと自分が凛君を傷つけてしまったのだと思っているんだ。

「ん? どうかしたか?」
「いえ……」

コーチの話を聞いて複雑そうな表情を浮かべているマコ。


夢を追うために、留学をしてまで水泳に懸けていた凛君。決して凛君に才能がないという事じゃない。けど、ハルは当然のようにその上をいっていて…。凛君にとっては相当なショックな出来事だったんだろう。

そして、この間の勝負で凛君があそこまで激昂したのは……勝負には勝ったのに、「勝ち負け」を気にも留めないハルに、嫌気がさしたから?

ようやく、2人の気持ちが分かった気がした。